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東大寺の大仏よりもはるかに大きかった方広寺大仏とその悲しき歴史

ネットで古い写真を探していると、明治13年(1880)に撮影された京都名所の写真集に遭遇した。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/satsuei/page7/KM_08_01_001_1.html

方広寺の鐘古写真

国際日本文化研究センターのサイトにいけば誰でもこの写真集を見ることが出来るのだが、そこに写っている写真は私も何度か行ったことがあるようなお寺や神社のものが大半だ。写真を見てどこを撮影したものかはある程度見当がついたのだが、この写真だけは少なからず違和感を覚えた。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/satsuei/page7/KM_08_01_011F.html

その違和感は、この写真集が「京都名所撮影」という表題であるにもかかわらず立派な鐘が雨曝しになっている写真で、なぜここが「名所」なのかと疑問に感じたからだ。この写真を見て急に方広寺の事を調べたくなった。

以前何度かこのブログで紹介したが、本文を 京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版を大坂の絵師竹原春朝斎が描いて安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」という本があり、この全ページと翻刻文が先程の国際日本文化研究センターのHPで紹介されている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

都名所図会方広寺2

この「都名所図会」第三巻に方広寺の立派な伽藍の絵が描かれているのだが、出版された当時にはこのような大きな伽藍が存在していたようだ。
「都名所図会」の本文には「大仏殿方広寺は、後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は廬舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向にして、東西廿七間南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置、長は壹丈四尺なり。門の内には高麗犬あり、金色にして長七尺…」などと記されている。

一丈は3.03m、一尺は30.3cmであるから、方広寺大仏の高さ六丈三尺は約19mということになる。ちなみに東大寺の大仏は五丈三尺で約16m(実測14.7m)であるから、方広寺の大仏は東大寺の大仏よりも一回り大きかったということになる。
また方広寺大仏殿は高さが49m、南北88m、東西54mということなのだが、現存で世界最大の木造建造物である東大寺大仏殿と比較すると高さは49mで同じだが、東大寺は正面が57,5mで奥行きが50.5mだから、方広寺大仏殿についても東大寺よりも一回り大きな建物だったのだ。豊臣秀吉は、京都の民衆を驚かせるような寺を造りたかったということなのか。

しかし、方広寺の歴史を調べると、何者かに呪われた寺であるかのように、何度倒壊や破損を繰り返している。Wikipediaの記事などを参考に、方広寺の歴史を振り返ってみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F

天正16年(1588)に豊臣秀吉が発した刀狩令には、「没収した武器類を方広寺の大仏の釘や鎹(かすがい)にする。そうすれば百姓はあの世まで救われる」と書かれていたことは有名な話だが、この寺の造営が開始されたのは天正14年(1586)で、刀狩令の二年前から工事が始まっているのである。

文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成し、高さ約19mの木製金漆塗坐像大仏が安置されたのだが、翌年の慶長元年(1596)に地震があり、開眼前の大仏は倒壊してしまった。
翌年秀吉は善光寺の本尊*を方広寺の本尊としたのだが、この頃から秀吉は病気になり、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになった。翌慶長3年(1598)にこの本尊を信濃(もともとの本尊のあった信濃善光寺)に送り返すのだが、秀吉はその仏像が送られた翌日(8月18日)に亡くなったのだそうだ。そして8月22日に大仏のないままで、方広寺大仏殿で開眼法要が行われたという。
*善光寺の本尊は戦国武将の思惑で全国各地を流転し、当時は甲府にあった。
http://zenkozi.com/about/wandering.html

その後秀吉の遺志を継ぎ豊臣秀頼によって大仏の再建が行われたが、慶長7年(1602)に鋳物師の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿は炎上してしまう。この火災については徳川家康が江戸に幕府を開いた直前の事だけに、放火説も根強くあるようだ。

慶長13年(1608)10月に、豊臣秀頼は再び大仏および大仏殿の再建を企図する。慶長15年(1610)から建築が始まり、慶長17(1612)年に大仏殿と銅製の大仏が完成した。この時は徳川家康も諸大名に負担を命じて協力したようである。

慶長19年(1614)に梵鐘が完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ落慶法要を行おうとしたが、7月に徳川家康より異議が唱えられ法要中止の求めがあった。有名な「方広寺鐘銘事件」だ。

清水寺・方広寺 057

上の画像が有名な方広寺の鐘だが、方広寺に行ってこの鐘をよく見てみると「君臣豊楽」「国家安康」という文字が白墨でわかりやすく囲まれていた。
この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が金地院崇伝らと画策して問題化させたものであるという考え方が一般的であるが、銘文を作った文英清韓という人物は豊臣氏とつながりが深く、同じ南禅寺住僧で徳川家康の顧問であった金地院崇伝と政治的に対立していたと言われており、文英清韓が自ら「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明したことが『摂戦実録』という書物に記されているそうだ。
文英清韓が意図的に隠し入れた文字を金地院崇伝が目ざとく見つけて家康に伝え、政治問題化したという見方もあるが、文英清韓が金地院崇伝に繋がっていて、二人で豊臣家を罠にはめたという見方はできないか。この事件の後文英清韓は処分を受けて南禅寺から追放されているが、なぜか蟄居中に林羅山のとりなしなどにより許されているのだ。 この事件にはかなり裏がありそうだが、詳しいことはよくわからない。

方広寺鐘楼

皮肉なことに、方広寺で創建以来の姿で今も残っているものはこの鐘だけなのだ。 鐘の銘文が徳川家を冒涜するものだとしながら、大坂の陣で豊臣軍を打ち破っても、家康はこの鐘を鋳潰さなかったし銘文を変えさせることもしなかった。何か徳川家康の意図があったような気がするのだが、この点はよくわからない。
ちなみにこの鐘の高さは4.2m、重さは82.7tとかなり大きく、東大寺、知恩院の鐘とともに日本三大名鐘の一つとされ、国の重要文化財に指定されている。

話を方広寺の歴史に戻そう。
「方広寺の鐘銘事件」の48年後の寛文2年(1662)に地震があり、また大仏が傷んでしまい再び木造で造られることとなる。壊れた大仏の銅は寛永通宝の鋳造に用いられたそうだ。


伏木勝興寺所蔵の洛中洛外図に描かれた方広寺

【洛中洛外図屏風に描かれた方広寺】

さらに寛政10年(1798)年に落雷による火災で大仏殿も木造の大仏も焼失してしまう。先程の紹介した「都名所図会」の大仏殿の絵はこの時に焼失する前に描かれたものであることが分かる。

この焼失の後は、さすがに江戸幕府は元の規模の大仏殿や大仏を再建することはしなかった。
天保年間(1830~1843)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上だけの大仏像と仮殿を造り寄進したのだが、それも、昭和48年の3月28日の深夜の火災で焼失してしまった。

創建以来約400年の間に、大仏は5回潰れ大仏殿は3回倒壊したということになるのだが、方広寺の大仏殿や大仏がまるで魔物にとりつかれているか、何者かに呪われているかのような歴史なのだ。

方広寺

上の画像は方広寺の現在の本堂だが、日本三大名鐘の大きさとはちょっと釣り合わない。 お願いすれば本堂も拝観できたのかもしれないが、私が方広寺を訪問した日は鐘楼だけを案内していた。

方広寺鐘楼天井

明治の初めに鐘楼が取り壊されて、しばらくは方広寺の鐘は雨曝し状態になっていたのだが、明治17年(1884)に鐘楼が再建されて現在にいたっている。天井には綺麗な彩色画が描かれている。
鐘楼の中に入ると焼失前に屋根の軒先に吊るされていた風鐸や柱の金輪などが無造作に地面に置かれていて、その大きさに驚かされた。

そして方広寺の南側には豊国神社がある。
豊臣秀吉は慶長三年(1598)八月に63歳で没し、その遺命により東山阿弥陀峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として豊国廟が建てられ、その周囲に八十余りの廟社殿が建設され、御陽成天皇は秀吉に正一位を授け豊国大明神を与えられたという。

しかし慶長20年(1615)の大阪の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により豊国大明神の神号が廃され、さらに豊国神社の破却を命じられ、社領は没収され、社殿は朽ちるまま放置されしまう。

しかし明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸したときに、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告し、明治13年(1880)に方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し遷座が行われたそうだ。
明治政府にとっては、豊臣家は反徳川の象徴でもあったので再興したとでも考えれば良いのだろうか

豊国神社

豊国神社の唐門は桃山時代の建築物らしく豪華絢爛で、「京の三唐門」の一つとされ国宝に指定されている。ちなみに「京の三唐門」の残りの二つは西本願寺の唐門(伏見城から移築)、大徳寺の唐門(聚楽第から移築)で、三唐門総てが秀吉に繋がるのである。
この唐門は明治の再興の際に南禅寺の塔頭「金地院」から移築されたものであることはわかっている。しかしそれ以前はどこにあったかについては、もともと豊国神社にあったという説、二条城にあったという説、伏見桃山城にあったという説に分かれるのだが、現在は伏見桃山城の城門であったという説が多数説のようだ。

創建当時の方広寺の境内は広く、現在の豊国神社や京都国立博物館をも含んでいたという。

方広寺石垣

今の方広寺に大寺の面影を感じるのは、豊国神社正面の立派な石垣もそうだが、神社の正面を南北に通じる「大和大路通り」が、現在の方広寺から国立博物館までだけが数倍広くなっている。ヤフーの航空写真では「大和大路通り」だけでなく、東西に走る「正面通り」もかなり方広寺の前で道幅が拡がっているのがよくわかる。最も広い豊国神社の鳥居の前の道幅は40m近くあると思う。

方向寺航空写真

いつの時代においてどこの国においても、教科書に書かれるような歴史は、その時代や国の為政者にとって都合の良いように書き換えられ、国民を洗脳するプロパガンダ的な要素が少なからずあるものだと考えている。

わが国において豊臣秀吉という人物の評価は江戸時代に貶められ、明治になって復活したが、第二次大戦後に再び貶められている。

戦後のわが国の歴史叙述は様々な国の圧力によってかなり歪められていることを前回の記事で触れたが、日本以外の多くの国にとっては豊臣秀吉が権力の亡者であり単なる侵略者としておくことが、自国の歴史を叙述する上で都合が良いということを考えてみるべきではないだろうか。
以前このブログで書いたように、秀吉が何故伴天連を追放し、なぜ朝鮮出兵をしたかを追求していくと、西洋社会の世界侵略や奴隷貿易や朝鮮半島の奴隷社会などの暗部に触れざるを得なくなってくる。その暗部について広く知られてしまっては自国の歴史を美しく描けない国が少なくないので、秀吉を貶めることによってその暗い史実を封印するように仕向けているという可能性はないのだろうか。
歴史の記述に関しては、史実に基づかない他国からの圧力には決して屈してはならないと思うし、わが国でいずれ秀吉が再び評価され、方広寺が注目される時代が来ることを信じたい。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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