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本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1

都名所図会本能寺

上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。

本能寺本堂

秀吉によって移転され再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の本能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。

天正10年6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で主君信長を襲った「本能寺の変」については何度もドラマ化されて、知らない人がいないくらい有名な事件だが、この事件で織田信長の遺体が見つからなかったという記録があることを最近になって知った。

信長は本能寺で自刃したことになっているのだが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、誰が自刃するのを見たのか、なぜ死んだと言えるのかなどと多くの人が疑問に思うに違いない。
「自刃した」と書かれているので明智軍の武将が信長を斬ったのではないことは確実だが、もし信長の遺体が発見されなかったのならば、明智軍にとっては、信長が逃げて生き延びた可能性を否定できないはずである。

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織田信長はこの本能寺をよく上洛中の宿所として利用していたそうだが、事件のあった日に本能寺から200mほど離れた教会にいた宣教師ルイス・フロイスの記録が残っている。この該当部分を読んでみよう。

「…本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(まち)の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか1町(ルア)を距てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、折からの早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3安土城と本能寺の変』p147-148)

明智光秀

「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラパードス)と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出てきた。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのように彼が死んだのかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。…」(同上書p148)

このように、フロイスの記録によると信長がほとんど警戒しておらず、無防備に近い状態であったことは間違いがなさそうだが、信長の死の場面についてはこんなに現場に近い場所でも諸説があったことがわかる。
しかしなぜ信長の遺体が見つからなかったのだろうか。木造建築物が火事になった場合の温度は1000度程度だ。「生きながら焼死」したのがわかっているのであれば、この温度で骨が残らないのは不自然だ。

Wikipediaによると、
「光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
遺体については火薬で爆散したという説を支持しておられるようだが、それならばフロイスの記述の中に、爆発があったことが書かれていないのが不自然だ。
よしんば火薬の爆発があったとしても、信長の遺体や遺品がいくら探してもみつからなければ、信長が逃亡して生き延びている可能性を考えない方がおかしいような気がする。なぜこのことを議論しないのだろうと思っていると、ネットでこんな記事が見つかった。

次のURLに、いずれも江戸時代の初期に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』、松平忠明『当代期』で光秀が行った信長の遺体の捜索状況について書かれている部分が引用されている。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide081.htm

小瀬甫庵の『甫庵信長記』では
「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記している。
『当代記』では「焼死に給うか。終りに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし。」とある。
「惟任(これとう)」というのは明智光秀のことだが、もし信長の遺体が見つからないのであれば、光秀は信長の生存を怖れないはずがないと思うのだ。

『甫庵信長記』は文学作品としては読まれても、記述の3割以上がフィクションで史料としては評価されていないのだが、では史料価値が高いとされている『信長公記』ではどう記述されているのか。つぎのURLでその原文を読むことができる。
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_16.pdf

織田信長

そこには、
「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、…」(巻十五、「信長公本能寺にて御腹めされ侯事」)
と、ここには信長が自刃したことは書かれていても、遺体のことについては何も書かれていない。

織田信忠

ところが、同じ日に信長の嫡男である信忠が二条新御所に篭城して明智軍と戦い、最後に自害する場面では『信長公記』にはこう書かれている。
「…三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴貼、宗従の家子郎等、甍を並べて討死。算を乱したる有様を御覧じ、不便におぼしめさる。御殿も間近く焼け来たる。此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠しおき、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。」(巻十五、「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」)
と、信忠については遺体を隠す命令を出したことが明記されている。

『信長公記』には信長の遺体については書かれていなくとも、信長が信忠と同様の措置を部下に指示した可能性は高いと思われる。

しかし信長の遺体は、後日秀吉が探しても見つからなかったという。
ということは、信長の遺体を余程わかりにくいところに隠したか、遺体を外部に持ち去った人物がいるのか、明智軍が遺体を確保したがその事実を秘匿したか、あるいは隙を見て信長が逃亡するのに成功したかのいずれかだろう。
次のURLでは本能寺の変の黒幕がいて、明智軍が遺体を確保したが秘匿したという推理をしているが、この説も面白い。確かに、もし信長が生きていたら、明智光秀は信長からいつ報復を受けてもおかしくないのだが、なぜ悠長に京都にとどまっていたのは不自然だ。
http://www.uiui.net/~9musai/pc/odanobunaga/NobunagaChapter-020102.htm
私も黒幕がいた可能性を考えているのだが、それを書くのは別の機会にしておこう。

話を元に戻そう。信長や信忠はなぜ部下に自分の遺体を隠せと言ったのだろうか。
一言でいうと、当時は首級を晒すことによってはじめて、その人物を討ち取ったことを世間に認識させることができた時代なのだ。もし明智光秀が信長の首を討ち取っていれば、その後の歴史の展開は大きく異なっていた可能性が高いと言われるほど、相手の首級を取ることが重大事であったのだ。

摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状にこんなものがある。
「上様(信長)并(ならびに)殿様(信忠)、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。」
要するに秀吉は、信長も信忠も巧みに明智の難をまぬがれて無事であったという具合に茨木城主の中川清秀に宣伝しているのだ。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20100131/1264953705
豊臣秀吉

秀吉は、こういうニセ情報の手紙を各地に送り、他の武将が明智光秀に味方するのを妨害したということだ。
信長の家臣の大半が日和見を決め込んだのは、信長の首が見つからなかったことがかなり響いているのではないか。明智光秀は秀吉の情報戦に敗れたとはいえないか。
当たり前のことなのだが、テレビもラジオも写真もなく、手書きの文書と口頭報告で情報を伝えていた時代のことだ。ニセの文書もいくつも作られていたことだろう。有名武将の死を広めるには、人通りの多いところで晒首にすることが明治維新の頃まで続いたことを忘れてはならない。要するに敵方の武将の首を取ることができなければ、情報戦に勝つことは難しい時代だったのだ。

ところで、遺体がなかったはずの織田信長の墓が全国に何か所もあるのは面白い。
一つは京都市上京区にある阿弥陀寺の石碑。当時の住職が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇し、その遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝えられている。
一つは京都市北区にある大徳寺総見院の五輪塔。この寺は秀吉が建立し、木造を2体作って1体は火葬し、1体を寺に安置したという。
一つは静岡県富士宮市の西山本門寺。ここには原宗安が本能寺の変で戦死した父と兄の首とともに、信長の首を持ち帰り首塚に葬ったという話が残されている。
他にも、高野山奥の院、安土城二の丸跡、岐阜市崇福寺、名古屋市総見寺などがWikipediaで紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

阿弥陀寺

以上の中で、私が最も注目したいのは京都市上京区の阿弥陀寺
当時の住職であった清玉(せいぎょく)上人は、元亀元年の東大寺大仏再建の勧進職を務め天皇家や織田家とも親交があった人物だそうだが、この寺に残されている『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は非常に興味深い。
本能寺の変を聞いて清玉上人は僧20人以上を連れて現場に駆け付けた。
「…表門は厳重に軍兵四方を囲み寺内に入る事出来ず、裏道より辛うじて入るが堂宇に火が放たれ、すでに信長公が割腹せられしと聞き、そばの竹林に十人余の武士集まりて火を焚く者あり、上人がこれをみるに信長の家臣なり、之に顛末を聞くに信長公割腹の時必ず死骸を敵に渡すことなかれと遺言あり、しかし四方敵兵にて死骸を抱きて遁れ去る道なし、やむなく火葬して隠しおいて各々自殺せんと一同答えたり、上人信長公とは格別の由縁あるを以て火葬は勿論将来の御追悼をもなさんとて武士に乞い、各々自殺するよりむしろ信長公の為に敵にあたりて死せんことを望むと語りければ、武士ら大いに喜び門前の敵を向うすきに上人火葬し白骨を法衣につつみ本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで苦もなく帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる。…」とリアリティを感じるのだ。

また、秀吉が清玉上人に信長の1周忌を喪主して執り行うことを申し出たということも興味深い。その際清玉上人は、信長の継承者争いを勝ち抜くために信長の一周忌を利用しようとする秀吉に対し「人の道にあらず」と断ったという。秀吉が他の寺ではなく最初に阿弥陀寺に申し出ているところに信憑性がありそうだ。
清玉上人に断られた秀吉は、大徳寺総見院を創建して信長を弔い、その後天下人となってから、この阿弥陀寺を上立売大宮東から今の寺町今出川に移転させ、所領を大幅に削っている点も面白い。
http://www.nobunaga-lab.com/labo/07_ibutu/07-03_iseki/byousyo/amidaji.html

私には『信長公阿弥陀寺由緒之記録』が作り話のようには思えないのだが、もし伝えられている内容が真実であれば、秀吉は阿弥陀寺の信長の遺骨は本物だということを確信していたということになる。しかし、自らが喪主になることが許されなかったので、今度は阿弥陀寺にある遺骨が本物である事が流布しないように、信長の遺体が見つからなかったということを広めて光秀の戦略の拙さに焦点を当てた物語を書かせて、阿弥陀寺のことを人々の記憶から消し去ろうとしたという見方はできないだろうか。
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Comment
織田信長の行方
織田信長は、傷を受けましたが本能寺の変では、死んでいません。でも、家臣が信長は死んだと思い、頭を取られない様に、背負い逃げたのです。だから、本能寺で遺体、遺骨があるはずがありません。
遺骨は今も存在します。ですが、誰も見つけることができません。しかし、逃げた先は、近くの山奥です。遺骨は、家臣と共に、いまだ、近くの山のどこかにありますよ。
Re: 織田信長の行方
コメント頂くのは有難いのですが、「死んでいない」、「近くの山奥に遺骨がある」と断言する論拠を示さなければ誰も納得させることは出来ませんし、阿弥陀寺にある遺骨が偽物であることの論証も必要になります。どんな仮説も、論拠を示さなければただのファンタジーにすぎません。

阿弥陀寺にある遺骨をDNA鑑定すれば事の真偽に近づけるかもしれませんが、信長のDNAを採取しないといけませんね。
「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は享保年間に再編されていますから資料的な信ぴょう性も不明です。
後から話をつくるのは簡単ですから。
秀吉は単に生前の信長と阿弥陀寺の縁から法事を依頼しているだけだと思います。
遺体が持ち出された、隠された、だから焼け跡からも見つからなかったというのは合理的な説明ですが、人間一人持ち出すほどの隙間が光秀の囲みにあったというのも疑問ですし、首だけもって逃げるのがせいぜいでしょう。
本能寺焼失後は信長以外の死体もあったでしょうから、フロイスの証言も文学的誇張です。
要するに、焼け跡には骨はあったが、それがだれのものであるのかはわからなかった、ということでしょう。
普通は首を切った家臣が首だけもって逃げるんですが、その形跡もないので、家臣もその場で殉死したのでしょう。
信長が本能寺に火をかけた理由がまさに、「首を光秀に渡さない」ですから、骨だけ手にいれてもだれも信じないのでそうしたのでしょう。
Re: タイトルなし
「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため、享保16年(1731)に記憶を頼りに作り直したものとされています。阿弥陀寺は天正15年(1587)に現在地の上京区鶴山町に移転しましたが、信長の墓もこの時に移転したと伝えられています。

「資料の信憑性」などと言いだしたら、本能寺の変に関して「信憑性」のあるものがあるのでしょうか。
公的に残された記録と矛盾する内容が記された文書がいくつかあることは、公的な記録が事実であるとは限らないことを意味します。いつの時代もどこの国でも、為政者は、為政者にとって都合の良いように歴史を書き換えるものなのです。

阿弥陀寺に織田信長の廟所が存在し、当時の経緯が伝えられていることをどうとらえるかは、人それぞれの感性により解釈が異なることは仕方がないですね。
信長の遺体
ま、信長の遺体はみつからなかったということは、本能寺で灰になったにしても、痕跡は残っていたはず。胴体に首がなければ、見分けがつかなかったろう。丸焦げの遺体が信長かどうか、判別する医学上の措置の無かった時代だから、どうしょうもなかったろう。
Re: 信長の遺体
信長は本能寺には「小姓を中心とする僅かの供回り」で宿泊しており、また不意打ちであったので、警備に当たっていた武士を除けば、武具をつけていなかった可能性が高いと考えられます。

人数が少ないのであれば、信長の遺体はある程度目ぼしがついたはずだと思うのですが、いかがでしょうか。


興味深い話です 有難うございました。
ちなみに当時の本能寺は、まったく違う場所です。
今の場所は関係ありません。
誓願寺もそうですが、洛中の古刹でも
移転したお寺、多いですね。
Re: タイトルなし
コメントありがとうございます。
5年ほど前に書いた記事ですが、今も良く読んでいただいているのがとてもうれしいです。

本文にも書きましたが、当時の本能寺は、四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったといいますから、かなり広い寺でした。
誓願寺も、本能寺と同様に秀吉の命で移された寺のようですね。

誓願寺は浄土宗ですが、本能寺をはじめ妙覚寺、妙顕寺など法華宗の寺がこの時期にかなり移転されました。「一向一揆」ばかりが有名ですが、法華宗も何度か一揆を行なっていたこともあり、天文5(1536)年,山門および南近江の守護六角(ろっかく)氏等が,京都の法華宗二十一本山に焼き討ちをかけた事件があり、その後も堺の末寺に逃れた後、京都に戻ることを許されています。
次のURLが参考になります。
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html
以前テレビで織田信長のデスマスクを見たことがあります。
デスマスクと阿弥陀寺にある遺骨のDNAを鑑定すれば本物か偽物か判別できるかもしれないですね。
Re: タイトルなし
とらさん、情報いただきありがとうございます。

ネットで調べると、デスマスクは「西山自然歴史博物館」というところにあるようですね。
写真などが次のURLにありますが、個人のコレクションを一室に展示しているようですが、本当に重要なものであればこんな展示の仕方はしないようにも思えます。
http://caramel24c.exblog.jp/25194956/

普通に考えれば、遺体の見つからなかった信長のデスマスクはあり得ず、デスマスクを造ることは当時の日本にはなかったし、西洋で拡がったのはもう少しあとの時代のようなので、私はおそらく偽物だと思いますが、黒人の弥助が持ち帰ったとか、信長暗殺の黒幕がイエズス会だったと言うもっともらしい説明があれば注目されるかもしれませんね。

信長、光秀の自作自演
信長は天下取りを目指していた?といわれていますが、実は領地取りに飽き飽きしていた。そこで光秀と共謀して本能寺の変を起こさせた。信長は、キリスト教会と共にヨーロッパに渡り生涯を終えた。だから死体は見つからない。と言う話しです。
Re: 信長、光秀の自作自演
さわらさよりさんへ。

根拠もなく自分で勝手に空想してはいけません。。当時の記録のどこにあなたの説を裏付けるものがありますか。

歴史を学ぶに際しては、自分で当時の記録などを出来る限り調べながら、本当は何が真実かを追求する姿勢が必要です。
その姿勢が現代をどう捉え、未来をどう考えるかに繋がるのです。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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