明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3
本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では
「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)」(p.142)
と、きわめて簡単に書かれているだけだ。
他の教科書も大同小異だが、共通しているのは光秀の単独犯行らしき書き方をしている点と、光秀が謀反を起こした動機については何も書かれていないという点である。
前回記事で信長暗殺が光秀の単独犯行説とは考えにくいような当時の文書がいくつも残されていることを紹介したが、そもそも光秀はなぜ信長を討つことを決意したのだろうか。
この点について教科書が書けないのは、あまりにも多くの説が存在し、定説がないからである。
Wikipediaには、明智光秀の単独説が5件、黒幕説が19件もの説が紹介されているのだが、他にもここに記載されていない説があるはずだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#.E5.A4.89.E3.81.AE.E8.A6.81.E5.9B.A0
詳しくは上記サイトを読んでいただきたいが、そこでは次のように総括されている。
「江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする『怨恨説』が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、『怨恨説』の域を出ることはなかった。
こうした理解は、映画やドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。」
また、
「これまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論」がなされるようになったのは戦後の研究からで、「…現在ではさまざまな学説が唱えられており、…意見の一致をみていない。」と書かれている。
この記述の裏を返すと、戦前の研究は「怨恨説」が主流で、それらの説は俗書や講談など根拠のない史料に基づいたものであったということだ。
「怨恨説」はつまるところ明智光秀の単独犯行説であり、死んだ光秀に原因のすべてを擦り付ける意図がある可能性が濃厚だ。
Wikipediaの記事には何が「俗書」なのかは明確には書かれていないが、「俗書や講談など根拠のない史料」とは具体的にどの書物を指し、どういう経緯でそのような書物が世に出たのだろうか。

「本能寺の変」に関して最も史料的価値が高いと歴史家から評価されているのは『信長公記』で、これは織田信長の家臣である丹羽長秀の祐筆であり後に秀吉に仕えた太田牛一が記録した文書で、信長の幼少期から本能寺の変までの記録が全16巻にまとめられている。
同時代に刊行されたものではなく、写本だけが残っており、池田家文庫本には慶長15年(1610)の太田牛一の自署があり、完成されたのは江戸時代の初期と考えられている。
原文を紹介すると、巻十五に
「六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。」
と書いてあるだけで、明智光秀が謀反に及んだ動機らしきものにはあまり踏み込んだ記載がない。強いて分類すれば天下取りの野望説ということになるのだろうか。
しかし、『信長公記』は当時において一般刊行されたものではなく、人々に広く読まれたものではなかった。
刊行されたものでは天正10年(1582)の本能寺の変のわずか4か月後に『惟任退治記』(これとうたいじき: 惟任は光秀のこと)という書物が世に出ている。著者の大村由己は豊臣秀吉の家臣である。
このなかで大村由己は、「惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたく企む。併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。」と書き、織田信長の最期の言葉として「怨みを以って恩に報ずるのいわれ、ためし(前例)なきに非ず」と語らせるなど、明智光秀の信長に対する長年の怨恨が謀反の原因であることを印象付けようとしていることが明らかだ。
大村由己は豊臣秀吉の偉業をたたえるスポークスマンのような存在で、「天正記」と呼ばれる軍記物のほか、秀吉を主役とする新作能もいくつか書いている。本能寺の変をテーマにした『明智討』は、文禄3年(1594)に大阪城および宮中で秀吉本人の手によって披露されたのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1

そして江戸時代に入って『太閤記』がいくつも刊行されている。
江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』(かわすみたいこうき)は、秀吉の死後家康に仕え柳川城主となった田中吉政の家臣であった川角三郎右衛門という人物が、当時の武士の証言をもとに書き記した全五巻の書籍だが、事件後40年以上も経ってから書かれた物語でありかなり事実と異なる部分があるようだ。
この本では先ほどの『惟任退治記』が公式化した光秀の信長に対する怨みを裏付けようと、その怨みのもととなる話をいくつか創作し、「怨恨説」をさらに強化したと言われている。

また『甫庵太閤記』(ほあんたいこうき)という全20巻の書物が、寛永3年(1626)から版を重ねている。
著者の小瀬甫庵(おぜほあん)は、豊臣秀次に仕えたのち、秀吉家臣の堀尾吉晴に仕えた人物で、『信長公記』や『惟任退治記』を参考にして著述したといわれ、この本もかなり創作がなされている。光秀が小栗栖の竹藪で土民に刺されて殺された話はこの書物ではじめて書かれたものだそうだ。この本では、光秀の謀反の理由を、安土での家康饗応役を取り上げられて、毛利攻めを命令されたことを恨んだためと書かれているそうだ。

また『絵本太閤記』という書物が、寛政9年(1797)~享和2年(1802)まで7編84冊が刊行され、人形浄瑠璃にもなって評判を博したと言われている。
本書は大阪の戯作者・武内確斎(たけうち かくさい)が大阪の挿絵師・岡田玉山と組んで出版した読本で、『川角太閤記』をもとに記述したものである。この本も光秀の謀反の理由は怨恨によるものというストーリーである。

これらの『太閤記』などによって秀吉伝説が作られ、光秀の怨恨による謀反であるとの本能寺の変の常識が一派民衆に定着していくことになった。明治以降に書かれた小説の多くが同様に怨恨説を採用しているのは、これらの『太閤記』などを参考にして書かれたという事なのだろう。
よくよく考えればわかることなのだが、秀吉の家臣である大村由己が秀吉の不利になることを封印して秀吉を礼賛することは当たり前のことなのだ。
また秀吉の時代はもちろんのこと、江戸時代についても今よりもはるかに言論統制が厳しかった時代だから、そもそも徳川家康の悪口が書けるはずがなかったのだ。
したがって、そのような書物を参考にして歴史小説を書けばどんな作家でも、光秀の謀反は単独実行で謀反を起こした理由は信長に対する怨恨にある、とならざるを得ないのだと思う。
しかし前回の記事に書いた通り、当時の記録からすれば信長自身が本能寺で家康を討つことを画策していた可能性がかなり高い。そのことを家康も秀吉も事前に知っていたから、二人は勝ち残ることができた。そして、少なくとも家康は、光秀と繋がっていた可能性が高いと前回書いたのだが、そもそも光秀はなぜ信長を討とうと考えたのか。
『信長公記』には信長が光秀を苛めたようなことは一切書かれておらず、むしろ信長は光秀を高く評価し信頼を置いていたのであり、二人の間に相克があったとい話は、怨恨説を書くために後になって創作されたものらしいのだ。
しかし、前回の記事で紹介したルイスフロイスの記録で、安土城で家康を接待する前の打ち合わせで、信長と光秀が「密室」で何かを話し合い、光秀が言葉を返すと信長が怒りを込めて光秀を足蹴にしたという話がどうも引っかかるのである。
明智憲三郎氏はここで、家康を畿内におびき寄せて暗殺する策を光秀に伝えたのち、光秀が信長に対して長宗我部征伐を思いとどまるように直訴したが、信長から拒絶されたと推理しておられるのだが、なぜ光秀は信長の長宗我部征伐に反対したのだろうか。
信長はそれまで光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。
光秀は重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、天正8年(1580)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれとなり、実現に向かっていた光秀と長宗我部との畿内・四国同盟崩壊という死活問題でもあった。
前回の記事で『本城惣右衛門覚書』を引用して、明智軍を本能寺まで先導したのは斉藤利三であったと書かれていることを紹介したが、利三にとっては姻戚関係にある長宗我部氏を征伐することを阻止したかったことは当然である。
私も詳しく知らなかったのだが、信長は毛利攻めだけでなく、四国攻めの朱印状をも同時に出していた。織田信長が三男の信孝に与えた天正10年(1582)5月7日の朱印状は、信孝に讃岐(現在の香川県)を、三好康長に阿波(徳島県)を与えるとともに、残りの土佐(高知県)・伊予(愛媛県)は信長が淡路島に到着したときに沙汰すると書かれているそうだ。
そして、大阪に集結した長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていたというのだ。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった。

危機一髪、長宗我部氏は滅亡を免れ、そしてその3年後の天正13年(1585)に長宗我部元親は四国全土の統一に成功するのである。
長宗我部元親の側近である高島孫右衛門という人物が記した『元親記』には「斉藤内蔵介(斉藤利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と書かれているそうだ。光秀の信長に対する謀反の早期実行を迫った人物は斉藤利三だというのだ。
明智憲三郎氏によると、
「光秀の家臣団は、明智秀満などの一族衆と斉藤利三等の美濃出身の譜代衆が中核となり、光秀が坂本城主となって以降抱えた西近江衆、山城衆、さらに義明追放に伴って組み込まれた旧幕臣衆、丹波領有により配下となった丹波衆などから構成されていました。その求心力となっていたのは、一族衆をはじめとする土岐一族でした。」(「本能寺の変四二七年目の真実」p.76)と書いてある。

土岐氏は室町時代には美濃・尾張・伊勢を治めた名門だが、天文21年(1552)に土岐頼芸が斉藤道三により美濃を追われて没落したため、明智光秀によって土岐氏再興をはかることが一族の悲願であったというのだ。また鎌倉時代には土岐三定(ときみつさだ)が伊予守となって以来土岐氏が伊予守を継承しており、四国は土岐氏にとって特別な場所だった。だから、土岐一族は信長の長宗我部征討の命令には従えなかったという事になる。
決定的な裏付け資料があるわけではないのだが、証拠が乏しいのはどの説を取っても同じことだ。限られた史料の中で、もっともこの説が他の史料との矛盾が少なく、真実に近いものではないかと私は思う。家康と光秀は繋がっていて、秀吉は光秀が本能寺で何をするかがわかっていなければ、他の史料と矛盾してこの事件は説明ができないのだ。
しかし、秀吉の情報工作にはほとほと感心してしまう。彼が最初に書かせた『惟任退治記』や『太閤記』などがベースになって物語や戯曲化され、各時代の人々に広まって、嘘話があたかも史実のように広まってしまっている。

「嘘も百回言えばそれが史実になっていく」という方法での情報操作はかなり古くからあったし、どこかの国ばかりではなく日本でも、マスコミを使って露骨な情報操作がなされることが少なくないようだ。
しかし、今はネットで正しい情報を拡散させることが誰でもできる。せめて、我々が生きている時代については、おかしな情報工作を排除させて、真実の歴史を後の世に伝えていきたいものである。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




- 関連記事
-
-
本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1 2011/11/04
-
本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2 2011/11/11
-
明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3 2011/11/16
-
家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4 2011/11/20
-
秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5 2011/11/25
-
光秀の弑逆は勅命であった。秀吉も承知。武士の情け と 他の者には討たせまいと急ぎ戻ったとか。狩野家には数多くの古文書が残されており、家系図等net公開されていますが、この話は言い伝えで文書にはないとのことです。
もう少し内容を知りたいところですが、言い伝えだけで文書がないというのは残念ですね。本能寺の変からあまり日がたたない時期の文書が1通でも残っていれば、注目されていたことでしょう。
この時期の公家の日記は、なぜか欠落していることが多いのです。
もし意図的に欠落させたのであれば、その意図は、為政者にとって都合の悪い記述を消そうとしたのか、別の権力者(例えば天皇)にとって都合の悪い記述を消そうとしたのか、どちらかなのでしょう。
Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。
***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。
コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。
匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。
また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************
- 国立国会図書館デジタルコレクション(旧近代デジタルライブラリー)
- 日本外交文書デジタルコレクション
- アジア歴史資料センター
- 神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫
- 東京大学地震研究所図書室特別資料データベース
- 西尾幹二のインターネット日録
- 国際派日本人養成講座
- 本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」
- 美の探求者、歴史と思想を語る 田中英道HP
- 株式日記と経済展望
- 余命三年時事日記
- 金貸しは、国家を相手に金を貸す
- 渡邉良明のブログ「日本の天命・日本人の使命」
- がらくた置場 (by minaga)
- electric-journal.
- 奈津子の徒然雑記帳
- キリスト教大辞典 キリスト教の問題点について考える
- Cyberlaw
- 黒田裕樹の歴史講座
- O-TUBE
- 観仏日々帖
- まーりたんの暮らし探訪記
- 歴史~とはずがたり~
- TEL QUEL JAPON
- 美雨の部屋へようこそ
- 田舎な歳時記
- 坂の上のサインボード
- 京都・町家ぐらし
- 日本たばこ党宣言
- rakitarouのきままな日常
- 中国通史で辿る名言・故事探訪
- タッチャンの散歩
- 別府葉子公式ブログ ~葉子通信
- お迎えが来ない居候hippoponの日常
- 戦国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行
- 実業の世界
- 遊びをせんとや生まれけん! 戯れせんとや生まれけん!
- 難関突破~技術士番外編~
- 寺社建築と文化財探訪<TIAS>
- 見るは法楽 HDR
- 五月花の羊
- 東京近代史研究所
- 九州戦国史~室町末期から江戸初期まで
- 日本古代史つれづれブログ
- 授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」
- ブルガリア研究室
- 木庵先生の独り言
- 横須賀★久里浜☆温故知新
- 美しき世の面影
- 親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)
- 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
- 失われた日本史 にきみたまの道
- たかちほのブログ
- ねずさんのひとりごと
- ぼやきくっきり
- 日本人の縄文思想と稲作のルーツ
- 短足おじさんの一言
- 私たちの過去と未来
- 心の風景
- 高天原の縁側日記
- ゴトーチたまて箱
- 石田泉城古代日記コダイアリー
- CHIYOROZU.INFO
- PINGOO! メモリーボード
- 「しばやんの日々」今月の人気ページランキング (上位500)
- 管理画面
- しばやん:戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した (02/05)
- :戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した (02/05)
- しばやん:明治の皇室と仏教 (01/13)
- :明治の皇室と仏教 (01/12)
- しばやん:大倉財閥の祖・大倉喜八郎が鰹節屋の小僧から独立し巨富を得た経緯 (01/06)
- ユーアイネットショップ店長うちまる:大倉財閥の祖・大倉喜八郎が鰹節屋の小僧から独立し巨富を得た経緯 (01/06)
- しばやん:正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える (01/05)
- 年金生活者:正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える (01/05)
- しばやん:2019年新年のご挨拶 (01/04)
- しばやん:正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える (01/04)
- ラングドック・ラングドシャ:2019年新年のご挨拶 (01/04)
- 年金生活者:正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える (01/04)
- しばやん:なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか (01/02)
- 年金生活者:なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか (01/02)
- しばやん:なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか (01/02)
- 年金生活者:なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか (01/02)
- しばやん:2019年新年のご挨拶 (01/02)
- 憂國トラッカー:2019年新年のご挨拶 (01/01)
- つねまる:2019年新年のご挨拶 (01/01)
- しばやん:2019年新年のご挨拶 (01/01)
- 失われた日本史 にきみたまの道:「親中派」が底値買いするために日本は敗戦させられたのではないのか? (07/17)
- 失われた日本史 にきみたまの道:神戸又新日報に昭和8年に報道されたフリーメーソン記事 (06/15)
- 模糊の旅人:仁徳天皇陵古墳の真の被葬者は誰か? 百舌鳥古墳群と古市古墳群の被葬者の比定 (04/19)
- 失われた日本史 にきみたまの道:大河ドラマ 幕末・明治ものは絶滅するかもしれない (01/28)
- 失われた日本史 にきみたまの道:日露戦争におけるドイツの思惑 (01/16)
- 失われた日本史 にきみたまの道:「勝てば官軍負ければ賊軍」の隠された意味 (01/15)
- 失われた日本史 にきみたまの道:廃藩置県の郷土史的意味 (12/25)
- Coffee, Cigarettes & Music:記事「大航海時代に日本が侵略されなかった理由wwwww」について(16) (12/06)
- Coffee, Cigarettes & Music:記事「大航海時代に日本が侵略されなかった理由wwwww」について(15) (11/20)
- Coffee, Cigarettes & Music:記事「大航海時代に日本が侵略されなかった理由wwwww」について(14) (11/12)
- 大日本帝国憲法が発布された日に初代文部大臣・森有禮が暗殺された事情 (02/19)
- 鹿鳴館時代に検討されていた条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた (02/12)
- 極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰なのか (02/06)
- 『文明開化』施策という極端な欧化主義政策と日本の伝統文化破壊 (01/29)
- 『文明開化』で旧来の制度や習慣を西洋化しようとした政府と、それに抵抗した人々 (01/22)
- 『文明開化』における新旧風俗の大混乱 (01/16)
- 大倉喜八郎が事業を発展させたきっかけと、儲けた金の使い方 (01/10)
- 大倉財閥の祖・大倉喜八郎が鰹節屋の小僧から独立し巨富を得た経緯 (01/05)
- 2019年新年のご挨拶 (01/01)
- 明治政府の薩長対立の中を生き抜いた藤田伝三郎の人脈と藤田コレクション (12/26)
- 奇兵隊に参加し失明した藤田伝三郎が大富豪となるきっかけとなった人物との出会い (12/19)
- 攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか (12/13)
- 日露戦争・旅順港閉塞作戦に協力した右近家から敦賀に向かう……越前の歴史散策4 (12/06)
- 瀧谷寺から越前海岸の景勝地と北前船で栄えた河野浦を訪ねて~~越前の歴史散策3 (11/29)
- 継体天皇ゆかりの足羽山から紅葉名所の大安禅寺へ ~~越前の歴史散策2 (11/22)
- 越前和紙で栄えた地域の歴史と文化と伝統の味を楽しむ~~越前の歴史散策1 (11/15)
- 明治政府にとって「徴兵制」のハードルは高かった (11/08)
- 明治時代の自虐史観と、「開発」行為による文化・景観破壊 (11/01)
- 甲賀の総社・油日神社、平安仏の宝庫・櫟野寺などを訪ねて~~甲賀歴史散策その2 (10/25)
- 現存する唯一の忍術屋敷を訪ねて~~甲賀歴史散策その1 (10/18)
- わが国史上最大の火山災害である「島原大変」の被害者の大半は津波で死亡した (10/11)
- 平家滅亡のあと畿内を襲った元暦2年7月の大地震 (10/04)
- 戦国時代の歴史を動かした天正地震 (09/27)
- 敗戦後の混乱期に日本列島を襲った「昭和南海地震」 (09/20)
- 地震がなかったにもかかわらず三陸海岸を中心に日本列島を襲った大津波~~チリ津波 (09/13)
- 由良要塞の一部である深山砲台の跡地と淡島神社などを訪ねて~~加太の歴史散策 (09/06)
- 紀伊国屋文左衛門がみかん船で大儲けしたという話は真実か (08/30)
- 江戸時代に大阪が商業の中心地として栄えた理由と、豪商・淀屋の闕所処分を考える (08/23)
- 綱吉の治世後半を襲った相次ぐ大災害の復興資金を、幕府はいかに捻出しようとしたか (08/16)
- 徳川綱吉の『生類憐みの令』を悪法とする通説が見直されているのはなぜか (08/10)
- 鳳来寺の神仏分離と日本の百名洞・乳岩峡などを訪ねて (08/02)
- 長篠の戦の武田勝頼公本陣跡から満光寺庭園、阿寺の七滝などを訪ねて (07/26)
- 長篠城址と長篠の戦いの決戦の地を訪ねて (07/19)
- 満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国 (07/12)
- 満州の民衆が関東軍を敵視しなかったのはなぜなのか (07/05)
- 満州に関東軍が駐留していた背景を考える (06/28)
- 満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか (06/21)
- リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか (06/14)
- 関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか (06/07)
- 満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか (06/01)
- 関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える (05/24)
- 関東軍は昭和の初期からソ連の工作活動の重要な対象であった (05/17)
- 仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える (05/11)
- 日本三大山車祭の一つ、長浜曳山祭の歴史と子ども歌舞伎 (05/03)
- 神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗 (04/26)
- 滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他 (04/19)
- 旧幕府の軍艦で脱走を図り、明治政府とは別の政権を誕生させた榎本武揚とその後 (04/12)
- 厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後 (04/05)
- 会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き (03/29)
- 白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争 (03/22)
同上 電子書籍
同上 自由選書版
江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます
落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました
この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました
南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版
