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明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3

本能寺の変について当時の記録を紹介しながら今まで2回に分けて書いてきたが、ここまで読んでいただいた方には、この事件については真実が相当歪められて後世に伝えられていることに気付かれたのではないだろうか。

本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では
「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)」(p.142)
と、きわめて簡単に書かれているだけだ。
他の教科書も大同小異だが、共通しているのは光秀の単独犯行らしき書き方をしている点と、光秀が謀反を起こした動機については何も書かれていないという点である。

前回記事で信長暗殺が光秀の単独犯行説とは考えにくいような当時の文書がいくつも残されていることを紹介したが、そもそも光秀はなぜ信長を討つことを決意したのだろうか。
この点について教科書が書けないのは、あまりにも多くの説が存在し、定説がないからである。

Wikipediaには、明智光秀の単独説が5件、黒幕説が19件もの説が紹介されているのだが、他にもここに記載されていない説があるはずだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#.E5.A4.89.E3.81.AE.E8.A6.81.E5.9B.A0

詳しくは上記サイトを読んでいただきたいが、そこでは次のように総括されている。
「江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする『怨恨説』が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、『怨恨説』の域を出ることはなかった。
こうした理解は、映画やドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。」
また、
「これまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論」がなされるようになったのは戦後の研究からで、「…現在ではさまざまな学説が唱えられており、…意見の一致をみていない。」と書かれている。

この記述の裏を返すと、戦前の研究は「怨恨説」が主流で、それらの説は俗書や講談など根拠のない史料に基づいたものであったということだ。
「怨恨説」はつまるところ明智光秀の単独犯行説であり、死んだ光秀に原因のすべてを擦り付ける意図がある可能性が濃厚だ。

Wikipediaの記事には何が「俗書」なのかは明確には書かれていないが、「俗書や講談など根拠のない史料」とは具体的にどの書物を指し、どういう経緯でそのような書物が世に出たのだろうか。

信長公記

本能寺の変」に関して最も史料的価値が高いと歴史家から評価されているのは『信長公記』で、これは織田信長の家臣である丹羽長秀の祐筆であり後に秀吉に仕えた太田牛一が記録した文書で、信長の幼少期から本能寺の変までの記録が全16巻にまとめられている。
同時代に刊行されたものではなく、写本だけが残っており、池田家文庫本には慶長15年(1610)の太田牛一の自署があり、完成されたのは江戸時代の初期と考えられている。
原文を紹介すると、巻十五に
「六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。」
と書いてあるだけで、明智光秀が謀反に及んだ動機らしきものにはあまり踏み込んだ記載がない。強いて分類すれば天下取りの野望説ということになるのだろうか。
しかし、『信長公記』は当時において一般刊行されたものではなく、人々に広く読まれたものではなかった。

刊行されたものでは天正10年(1582)の本能寺の変のわずか4か月後に『惟任退治記』(これとうたいじき: 惟任は光秀のこと)という書物が世に出ている。著者の大村由己は豊臣秀吉の家臣である。
このなかで大村由己は、「惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたく企む。併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。」と書き、織田信長の最期の言葉として「怨みを以って恩に報ずるのいわれ、ためし(前例)なきに非ず」と語らせるなど、明智光秀の信長に対する長年の怨恨が謀反の原因であることを印象付けようとしていることが明らかだ。

大村由己は豊臣秀吉の偉業をたたえるスポークスマンのような存在で、「天正記」と呼ばれる軍記物のほか、秀吉を主役とする新作能もいくつか書いている。本能寺の変をテーマにした『明智討』は、文禄3年(1594)に大阪城および宮中で秀吉本人の手によって披露されたのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1

川角太閤記

そして江戸時代に入って『太閤記』がいくつも刊行されている。
江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』(かわすみたいこうき)は、秀吉の死後家康に仕え柳川城主となった田中吉政の家臣であった川角三郎右衛門という人物が、当時の武士の証言をもとに書き記した全五巻の書籍だが、事件後40年以上も経ってから書かれた物語でありかなり事実と異なる部分があるようだ。
この本では先ほどの『惟任退治記』が公式化した光秀の信長に対する怨みを裏付けようと、その怨みのもととなる話をいくつか創作し、「怨恨説」をさらに強化したと言われている。

甫庵太閤記

また『甫庵太閤記』(ほあんたいこうき)という全20巻の書物が、寛永3年(1626)から版を重ねている。
著者の小瀬甫庵(おぜほあん)は、豊臣秀次に仕えたのち、秀吉家臣の堀尾吉晴に仕えた人物で、『信長公記』や『惟任退治記』を参考にして著述したといわれ、この本もかなり創作がなされている。光秀が小栗栖の竹藪で土民に刺されて殺された話はこの書物ではじめて書かれたものだそうだ。この本では、光秀の謀反の理由を、安土での家康饗応役を取り上げられて、毛利攻めを命令されたことを恨んだためと書かれているそうだ。

絵本太閤記

また『絵本太閤記』という書物が、寛政9年(1797)~享和2年(1802)まで7編84冊が刊行され、人形浄瑠璃にもなって評判を博したと言われている。
本書は大阪の戯作者・武内確斎(たけうち かくさい)が大阪の挿絵師・岡田玉山と組んで出版した読本で、『川角太閤記』をもとに記述したものである。この本も光秀の謀反の理由は怨恨によるものというストーリーである。

浄瑠璃舞台

これらの『太閤記』などによって秀吉伝説が作られ、光秀の怨恨による謀反であるとの本能寺の変の常識が一派民衆に定着していくことになった。明治以降に書かれた小説の多くが同様に怨恨説を採用しているのは、これらの『太閤記』などを参考にして書かれたという事なのだろう。

よくよく考えればわかることなのだが、秀吉の家臣である大村由己が秀吉の不利になることを封印して秀吉を礼賛することは当たり前のことなのだ。
また秀吉の時代はもちろんのこと、江戸時代についても今よりもはるかに言論統制が厳しかった時代だから、そもそも徳川家康の悪口が書けるはずがなかったのだ。
したがって、そのような書物を参考にして歴史小説を書けばどんな作家でも、光秀の謀反は単独実行で謀反を起こした理由は信長に対する怨恨にある、とならざるを得ないのだと思う。

しかし前回の記事に書いた通り、当時の記録からすれば信長自身が本能寺で家康を討つことを画策していた可能性がかなり高い。そのことを家康も秀吉も事前に知っていたから、二人は勝ち残ることができた。そして、少なくとも家康は、光秀と繋がっていた可能性が高いと前回書いたのだが、そもそも光秀はなぜ信長を討とうと考えたのか。

『信長公記』には信長が光秀を苛めたようなことは一切書かれておらず、むしろ信長は光秀を高く評価し信頼を置いていたのであり、二人の間に相克があったとい話は、怨恨説を書くために後になって創作されたものらしいのだ。

しかし、前回の記事で紹介したルイスフロイスの記録で、安土城で家康を接待する前の打ち合わせで、信長と光秀が「密室」で何かを話し合い、光秀が言葉を返すと信長が怒りを込めて光秀を足蹴にしたという話がどうも引っかかるのである。

                              
明智憲三郎氏はここで、家康を畿内におびき寄せて暗殺する策を光秀に伝えたのち、光秀が信長に対して長宗我部征伐を思いとどまるように直訴したが、信長から拒絶されたと推理しておられるのだが、なぜ光秀は信長の長宗我部征伐に反対したのだろうか。

信長はそれまで光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。
光秀は重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、天正8年(1580)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれとなり、実現に向かっていた光秀と長宗我部との畿内・四国同盟崩壊という死活問題でもあった。

前回の記事で『本城惣右衛門覚書』を引用して、明智軍を本能寺まで先導したのは斉藤利三であったと書かれていることを紹介したが、利三にとっては姻戚関係にある長宗我部氏を征伐することを阻止したかったことは当然である。

私も詳しく知らなかったのだが、信長は毛利攻めだけでなく、四国攻めの朱印状をも同時に出していた。織田信長が三男の信孝に与えた天正10年(1582)5月7日の朱印状は、信孝に讃岐(現在の香川県)を、三好康長に阿波(徳島県)を与えるとともに、残りの土佐(高知県)・伊予(愛媛県)は信長が淡路島に到着したときに沙汰すると書かれているそうだ。
そして、大阪に集結した長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていたというのだ。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった。

長宗我部元親

危機一髪、長宗我部氏は滅亡を免れ、そしてその3年後の天正13年(1585)に長宗我部元親は四国全土の統一に成功するのである。

長宗我部元親の側近である高島孫右衛門という人物が記した『元親記』には「斉藤内蔵介(斉藤利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と書かれているそうだ。光秀の信長に対する謀反の早期実行を迫った人物は斉藤利三だというのだ。

明智憲三郎氏によると、
「光秀の家臣団は、明智秀満などの一族衆と斉藤利三等の美濃出身の譜代衆が中核となり、光秀が坂本城主となって以降抱えた西近江衆、山城衆、さらに義明追放に伴って組み込まれた旧幕臣衆、丹波領有により配下となった丹波衆などから構成されていました。その求心力となっていたのは、一族衆をはじめとする土岐一族でした。」(「本能寺の変四二七年目の真実」p.76)と書いてある。

桔梗紋

土岐氏は室町時代には美濃・尾張・伊勢を治めた名門だが、天文21年(1552)に土岐頼芸が斉藤道三により美濃を追われて没落したため、明智光秀によって土岐氏再興をはかることが一族の悲願であったというのだ。また鎌倉時代には土岐三定(ときみつさだ)が伊予守となって以来土岐氏が伊予守を継承しており、四国は土岐氏にとって特別な場所だった。だから、土岐一族は信長の長宗我部征討の命令には従えなかったという事になる。

決定的な裏付け資料があるわけではないのだが、証拠が乏しいのはどの説を取っても同じことだ。限られた史料の中で、もっともこの説が他の史料との矛盾が少なく、真実に近いものではないかと私は思う。家康と光秀は繋がっていて、秀吉は光秀が本能寺で何をするかがわかっていなければ、他の史料と矛盾してこの事件は説明ができないのだ。

しかし、秀吉の情報工作にはほとほと感心してしまう。彼が最初に書かせた『惟任退治記』や『太閤記』などがベースになって物語や戯曲化され、各時代の人々に広まって、嘘話があたかも史実のように広まってしまっている。

尖閣


「嘘も百回言えばそれが史実になっていく」という方法での情報操作はかなり古くからあったし、どこかの国ばかりではなく日本でも、マスコミを使って露骨な情報操作がなされることが少なくないようだ。
しかし、今はネットで正しい情報を拡散させることが誰でもできる。せめて、我々が生きている時代については、おかしな情報工作を排除させて、真実の歴史を後の世に伝えていきたいものである。
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Comment
言い伝え
知人で光秀の子孫、細川藩の絵師であった狩野家の末裔であられる方(現在は喜多流能楽師でご活躍されています)に最近お聞きした話です。
光秀の弑逆は勅命であった。秀吉も承知。武士の情け と 他の者には討たせまいと急ぎ戻ったとか。狩野家には数多くの古文書が残されており、家系図等net公開されていますが、この話は言い伝えで文書にはないとのことです。
Re: 言い伝え
sirouさん、コメントありがとうございます。

もう少し内容を知りたいところですが、言い伝えだけで文書がないというのは残念ですね。本能寺の変からあまり日がたたない時期の文書が1通でも残っていれば、注目されていたことでしょう。
>本能寺の変からあまり日がたたない時期の文書

この時期の公家の日記は、なぜか欠落していることが多いのです。

Re: タイトルなし
あまり知らなかったのですが、この時期の公家の日記が欠落しているというのは興味深いですね。

もし意図的に欠落させたのであれば、その意図は、為政者にとって都合の悪い記述を消そうとしたのか、別の権力者(例えば天皇)にとって都合の悪い記述を消そうとしたのか、どちらかなのでしょう。
この時期の日記の欠落は、秀吉の捜査に対して公家が自分に疑いがかかることを恐れて破棄してるのです。陰謀説に結びつけるのは短絡的すぎるでしょう。
Re: タイトルなし
なるほど、その可能性も考える必要がありますね。ご指摘ありがとうございます。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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