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淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1

淡路島の文化財を調べていると「東山寺(とうさんじ)」というお寺に平安時代の仏像13体が国の重要文化財に指定されているのが目にとまった。
この13体の仏像の由来を調べると、明治の廃仏毀釈の時に京都の石清水八幡宮護国寺(いわしみずはちまんぐうごこくじ)から淡路島のこの地に遷されたという記事を見つけて興味を覚え、この目で見たくなった。
6月になって淡路島の鱧料理が旬を迎えたので、この東山寺や淡路島の面白そうなところを巡りながら食事を楽しむ日帰り旅行を計画し、先週行って来た。

最初に訪ねたのはもちろん東山寺である。

東山寺の事を書く前に、石清水八幡宮護国寺について書いておこう。

以前このブログで、明治初期の廃仏毀釈までは、京都府八幡市の石清水八幡宮のある男山全体が「男山四十八坊」と言われるように圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-53.html
その男山全体の中心施設が「護国寺」であった。

iwasimizu232.jpg

上の図面は「城州八幡山案内絵図」に描かれた護国寺と琴塔の付近のもので、中央の大きな屋根の建物が「護国寺」で、その上に描かれているのが石清水八幡宮の本殿である。他の建物などと比較しても「護国寺」はかなり大きなお寺であったことが分かる。

「石清水八幡宮護国寺」の歴史を調べると、石清水に八幡神が遷座される以前に「石清水寺」という寺院があったということが社伝にあるそうだが、平安時代の貞観4年(862)に「石清水寺」を「護国寺」と改号したらしい。
康和5年(1103)に大江匡房が十二神将を寄進したという記録も残されている。また本尊の薬師如来は石清水八幡宮が八幡大菩薩を遷座する以前から石清水寺の本尊であり、平安期初期の制作だそうだ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_iwasimizu2.htm

明治の廃仏毀釈により石清水八幡宮護国寺の堂宇は破壊されてしまい、仏像・仏具などの大半は焼却・廃棄あるいは売却されたのだが、その最も重要な仏像がいったいどういう経緯で淡路島の山奥の東山寺に遷されたのか。そこには東山寺復興に至るまでの壮絶なドラマがあるのだが、この点については「淡路インターネット放送局」のサイトが詳しい。
http://www.city.awaji.hyogo.jp/sec/jouhou/aitv/ch2.html

東山寺仏像

東山寺の歴史と、石清水八幡宮寺の仏像が遷った経緯を簡単に記しておこう。
東山寺は嵯峨天皇の弘仁10年(820)に弘法大師が伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の鎮護と庶民信仰の中心として開祖した由緒ある寺院であったが、戦国時代に全焼したのち、弘安8年(1286)に現在の地に再興されたが、徳川時代中期以降に寺運が衰えていき、幕末の時期には廃寺同然となってしまう。ドラマはその時期に東山寺にやってきた尼僧:佐伯心随と勤王の志士との出会いから始まる。
当時の淡路島は尊王攘夷運動の一拠点となっていて、反体制を掲げた多くの勤王の志士たちが淡路島に来島しており、特に山深い東山寺はいつしか彼らの密会の場所となって、梁川星巌や頼三樹三郎らが頻繁に出入りしていたそうだ。(庫裏には志士達の刀痕が残されているそうだ)

佐伯心随尼

勤王の志士同志で島外の仲間との重要な情報伝達には密使が必要で、佐伯心随尼に白羽の矢が立ち、心随尼は志士達の要請を受けて石清水八幡宮護国寺の別当であった道基上人に何度か密書を届けるようになる。道基上人もまた尊王攘夷運動の重要人物であった。

やがて江戸幕府が大政奉還し明治の時代を迎えると、今度は廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、日本各地で仏教施設や仏像が破壊されるようになった。
道基上人の石清水八幡宮護国寺も例外ではなく、本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像も男山にうち捨てられてしまったが、道基上人は平安時代から人々の信仰を集め、多くの人々によっ守られてきたこれらの仏像がこのまま雨ざらしで朽ちていくことには耐えがたく、淡路島で東山寺の復興のために頑張っていた佐伯心随尼にこれらの仏像のすべてを託すことによって、少しでもこれらの仏像を後世に残すことを決意したのである。
明治2年(1869)6月12日にこれらの仏像は、人目を避けるようにして運び出されてこの東山寺に遷され、その後東山寺は佐伯心随尼により復興を遂げることになった。
一方道基上人は、その後淡路島に移り住み、永寿寺という小さなお寺の住職となるが、東山寺の復興を見届けた後、明治22年(1889)に生涯を終えたとのことである。

東山寺は北淡ICから7km程度の距離ではあるが山深い場所にあり、途中からは私の車のカーナビでは認識しないような道を走ることになる。道幅も3m程度とかなり狭いので運転には注意が必要である。

東山寺山門

上の画像が東山寺の山門である。この山門は室町時代に淡路守護職であった細川頼春から寄進されたもので、淡路島に現存する最古の木造建築だそうだ。

東山寺本堂80

上の画像は東山寺の本堂で、本尊の千手観音が安置されている。

東山寺薬師堂

石清水八幡宮護国寺から遷された13体の仏像は、以前は木造の薬師堂に安置されていたのだが、昭和40年の台風で裏山が崩れ危険な状態になったので、コンクリートの薬師堂が建設されて今はこの建物の中にある。やや高めの拝観料(700円)だが国指定の重要文化財の仏像を13体も見ることができると思えば価値がある。

中に入ると、目の前でこれら重要文化財指定の仏像を見ることができる。撮影はできないのでネットで入手した画像を添付しておくが、なかなか見ごたえのある仏像である。

石清水八幡宮寺薬師如来

薬師如来像は9世紀前半から半ばにかけての制作で、かっては「男山の厄除け薬師」と言われて人々の信仰を集めていた有名な仏像だったそうだ。

otokoyama_yk3.jpg

また十二神将像は当時九州で活躍していた仏師・真快の11世紀末期の作品と言われている。
これらの仏像が男山にどのくらいの期間打ち捨てられていたかは不明だが、やや変色しているものの全般的に保存状態は良好であった。

これらの仏像の来歴について知れば知るほど、今も残っているのが奇跡のように思えてくる。
記録では石清水八幡宮寺は、14世紀と15世紀の二度にわたり火災を経験しており、この時もこれらの仏像は人々の手により運び出されて難を逃れているのだ。
また明治の廃仏毀釈の危機も、佐伯心随尼、道基上人がいなかったら、また東山寺が幕末の志士達の密会所にならなかったら、以前このブログで書いた香川県琴平市の金刀比羅宮の仏像のように朽ち果てていてもおかしくなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

自宅に帰ってから「東山寺」のパンフレットを読んでいると、なぜかこの13体の仏像のことも石清水八幡宮護国寺や道基上人のことも書かれていないことに気が付いた。
パンフレットには「讃岐の人 佐伯心随尼が大師仏縁の故をもって尋ねて来往、大いに復興に努められました」と「幕末安政の頃、勤王の志士梁川星厳・頼三樹三郎・伊藤聴秋、幕府の目を逃れるに最適の地として此処で謀議をこらしたことがあり、これ等志士の詩や、憤怒のあまり振った刀尖の痕と認められるものが今に残っています。」と書かれているだけなのだ。
明治時代の廃仏毀釈の話を書かずしては説明できないことを初めから省略してしまっては、パンフレットを読んでも、なぜ東山寺に本尊とは別に重要文化財の仏像があるのかが誰も理解できないし、歴史のロマンを感じることもできないだろう。

明治の廃仏毀釈については、教科書ではせいぜい「国学や神道の思想に共鳴する人々の行動が一部で過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度の記述しかない。東山寺や教科書だけでなく、多くの有名社寺のパンフレットやHPにおいても、廃仏毀釈のことを書いていることを見かけることは滅多にない。

廃仏毀釈を語ることが長い間タブーのようにされてきたのは、それを詳しく知らしめることが明治政府の施策やそれを支える思想を批判することにつながると考えられたのではないだろうか。
しかし明治の時代は遠く過ぎ去り、戦後66年もたったのだから、そろそろ真実をありのままに語ることぐらいは許されてよいと思うのだ。
幕末から明治の時代はきれい事だけの歴史の叙述ではとても理解が出来ないのだが、東山寺で起こった出来事を知るだけで、その時代の雰囲気を身近に感じることができる。東山寺の仏像を見るだけで、多くの人々が時代を超えて文化財を守ってきたことを知ることができる。
東山寺の仏像が私には随分輝いて見えて、密度の濃い時間を楽しむ事が出来た。
歴史の好きな人には是非お勧めしたい寺院である。
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「国生み神話」ゆかりの神社を訪ねて、昼は鱧料理のフルコース~淡路島文化探訪の旅2

淡路島は「国生み神話」の舞台でもある。
高校時代に日本神話を学んだときは、史実でもない作り話にほとんど関心を持たなかったが、この歳になって実際に「古事記」や「日本書記」を読んでみると、結構面白いのだ。

「国生み神話」は「古事記」と「日本書紀」とは微妙に異なるところがあるが、たとえば「古事記」にはこのように書かれている。

「そこで天の神様方の仰せで、伊耶那岐の命(いざなきのみこと)・伊耶那美の命(いざなみのみこと)お二方に、『この漂っている国を整えてしっかりと作り固めよ』とて、りっぱな矛(ほこ)をお授けになって仰せつけられました。それでこのお二方の神様は天からの階段にお立ちになって、その矛をさしおろして下の世界をかき廻され、海水を音を立ててかき廻して引きあげられた時に、矛の先から滴る海水が積もってできた島が淤能碁呂(おのごろ)島です。その島にお降りになって、大きな柱を建て、大きな御殿をお建てになりました。」(新訂「古事記」:武田祐吉訳 角川ソフィア文庫p.209)

kuniumi.jpg

「…そこで伊耶那岐の命が仰せられるには、『わたしのからだは、できあがって、でき過ぎた所が一か所ある。だからわたしのでき過ぎた所をあなたのでききらない所にさして国を生み出そうと思うがどうだろう』と仰せられたので、伊耶那美の命が『それがよいでしょう』とお答えになりました。そこで伊耶那岐の命が『それならわたしとあなたが、この太い柱を廻りあって、結婚をしよう』と仰せられてこのように約束して仰せられるには『あなたは右からお廻りなさい。わたしは左から廻ってあいましょう』と約束してお廻りになる時に、伊耶那美の命が『ほんとうに立派な青年ですね』といわれ、その後で伊耶那岐の命が『ほんとうに美しいお嬢さんですね』といわれました。それぞれ言い終わってから、その女神に『女が先に言ったのはよろしくない』とおっしゃいましたが、しかし結婚をして、これによって御子水蛭子をお生みになりました。この子は葦の船に乗せて流してしまいました。次に淡島をお生みになりました。これも御子の数にははいりません。」(同書p.210)

「かくてお二方でご相談になって、『今わたしたちの生んだ子がよくない。これは天の神様のところへ行って申し上げよう』と仰せられて、ご一緒に天に上って天の神様の仰せをお受けになりました。そこで天の神様の…仰せられるには、『それは女の方が先に物を言ったので良くなかったのです。帰り降って改めて言いなおした方が良い。』と仰せられました。そういうわけで今度は伊耶那岐の命がまず『ほんとうに美しいお嬢さんですね』とおっしゃって、後に伊耶那美の命が『ほんとうにりっぱな青年ですね』と仰せられました。かように言い終わって結婚をなさって御子の淡路の穂の狭別(さわけ)の島をお生みになりました。…」(同書p.210)

この「淡路の穂の狭別の島」が現在の淡路島で、伊耶那岐と伊耶那美は続いて伊予の二名の島(四国)、隠岐の三子の島(隠岐)、筑紫の島(九州)、壱岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま:本州)を生んでいくのだ。

天地創造

キリスト教の世界では神が天地を創造し、アダムを創造したのだが、アダムが一人でさびしそうにしているので神が、アダムを慰めるためにアダムの肋骨からイブを作ったとしている。

いずれも作り話なのでとうでもいいと考える人が多いとは思うのだが、国民の誰もが子供のころから知っているような宗教や神話のストーリーが、男女の関係についての考え方に与える影響が小さいはずがないのではないかと思う。

日本神話では男神と女神とが共同ですべてを創造し男神がリードしながらも男女が相互補完する関係を描いているが、キリスト教の男女の関係は圧倒的に男性優位の描き方のように思える。日本では紫式部や清少納言らが活躍していた時代に、キリスト教世界では女性で活躍した人物が誰もいないのは、旧約聖書における男女観と無関係ではないように思うのだ。

淡路島の旅行の話に戻そう。前回は弘仁10年(820)に弘法大師が伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の鎮護の寺として開祖した東山寺(とうさんじ)の仏像のことを書いた。
東山寺の次の目的地は「伊弉諾神宮」だ。

「日本書記」によると、国生みの大業を成し遂げた伊弉那岐が、御子神である天照大御神に国家統治を任せて、淡路の地に幽宮(かくれみや)を構えて余生を過ごしたことが記されている。その場所が「伊弉諾神宮」なのだそうだ。

Wikipediaによると、この神社は古代には淡路島神、津名神、多賀明神などと呼ばれていたのだそうだが、正式に「伊弉諾神宮」と言われるようになったのはいつ頃のことなのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%BC%89%E8%AB%BE%E7%A5%9E%E5%AE%AE

いざなぎ神社鳥居

上の画像が「伊弉諾神宮」の鳥居だが、淡路国一宮だけのことはあって想像していた以上に大きな神社だった。

いざなぎ神社本殿

上の画像は本殿で、明治15年(1882)に建築されたものだ。

いざなぎ神社夫婦大楠

境内には樹齢900年の「夫婦大楠」がある。これは2株の樹木が、成長するにつれて合体して1株になったというもので、兵庫県の天然記念物に指定されている。

最初に紹介した「国生み神話」の最初のところで矛の先から滴る海水が積もってできた「淤能碁呂(おのごろ)島」という島があった。この島がどこにあったかは諸説があるようだ。

おのころ神社鳥居

上の画像は、南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社(おのころじまじんじゃ)の大きな鳥居だ。この鳥居は厳島神社、平安神宮の鳥居とともに日本三大鳥居のうちの一つとされているそうだが、社殿はけっして大きなものではなかった。

「古事記」や「日本書記」を普通に読むと、「淤能碁呂(おのごろ)島」は「淡路島」と別の島のはずなのになぜここが「淤能碁呂島」なのかと思うのだが、南あわじ市のHPによると、「数千年前の縄文時代には、三原平野の低い所が入江であった(縄文海進)とされていることから、また、水辺に群生する葦が最近まで島の北部一帯に広がっていたことからも、むかしは、海の中に浮かぶ小島であったと考えられて」いるのだそうだ。
http://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/index/page/61d5bb170f81649594fa7a7e9ee37f16/
淡路島の南に沼島(ぬしま)という小さな島があり、この島が「淤能碁呂島」という説もある。この島に渡るとここにも「おのころ神社」があるそうだが、一日10便の船で渡るのは諦めた。

文治はもすき

この時期(6-8月)の沼島は鱧料理が有名だ。自宅にあった「るるぶ淡路島」に沼島の鱧を料理してくれる「文治」というお店が福良にあることが載っていたので昼食の予約をしていたが、この時期はさすがに満席だった。

はも鍋

鱧料理と言っても、いままでは「湯引き」したものを梅肉や三杯酢で食べたことしかなかったが、朝まで生きていた新鮮な鱧で作った鱧のあぶり、鱧の湯引き、鱧のてんぷら、鱧すき、特性のダシで煮込む鱧すきとその後の福良産のそうめんなど、何を食べても旨かった。写真の左の器にあるのは鱧の肝と卵だが、この味が忘れられないのでまた行くことになりそうだ。

<つづく>
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淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3

お昼に鱧料理を堪能し、再び淡路島のドライブを続ける。

つぎに紹介したいのは淡路島の伝統芸能である人形浄瑠璃だ。大阪の文楽や徳島の阿波人形などのルーツだと言われており、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。

淡路島人形浄瑠璃の歴史は南淡路市のHPに簡記されている。
http://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/index/page/dbb2afd6c95a4c8fc86b63d694339cda/
が、もう少し詳しく知りたい人は、次のサイトが詳しい。

郷土史家の菊川兼男さんが監修した「ネットミュージアム兵庫文学館 淡路人形浄瑠璃」
http://www.bungaku.pref.hyogo.jp/kikaku/awaji/index.htm
淡路人形浄瑠璃生年研究会
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/1719/awajinin1.htm

淡路島人形浄瑠璃

それぞれ微妙に内容が異なるが簡単にまとめると、淡路人形の発祥は今から500年余り前に、西宮の戎神社に仕えていた百太夫(ひゃくだゆう)という傀儡師(くぐつし:人形遣い)が、現在の南淡路市三原町市三條に来て人形の使い方を伝授したことに始まると言われている。
細川家の衰退とともに、それまで神事に舞楽奉仕を行うことを職業としていた楽人たちは、新たな神事芸能を創造すべく上方から伝えられた「式三番叟(しきさんばそう)」の奉納を人形操りによって行いました。これが淡路人形浄瑠璃のルーツとなる。

続いて今から約400年前、慶長年間(1596-1614)に、京都で始まっていた三味線を伴奏楽器とする古浄瑠璃と人形操りとが提携して人形浄瑠璃が成立したと言われているが、江戸中期の『和漢三才図会』という百科事典には、最初に古浄瑠璃と提携した人形繰り師として淡路島出身の第二代引田源之丞の名前が書かれているのだそうだ。

その後淡路人形浄瑠璃は阿波の殿様(淡路国の領主でもある)の保護を受けて発展し、江戸中期には淡路に40を超える人形座が出来、それに携わる人が900人余りもいて、東北から九州にかけて広く芝居の巡業をしていたそうだが、その後人形座は次第に減少して、今は「淡路人形座」と「市村六之丞座」の二つだけだという。

「淡路人形座」は、鳴門海峡の近くの大鳴門記念館にある「淡路人形浄瑠璃館」では毎日公演がなされているが、この公演は数年前に見ているので今回は淡路人形浄瑠璃発祥の地の南淡路市三原町にある「人形浄瑠璃資料館」に行ってきた。この資料館は南あわじ市三原図書館の二階にあり、「市村六之丞座」の人形や衣装や台本など古い資料が展示されており、スタッフの丁寧な説明を受けることができるうえ、再現された舞台でビデオの鑑賞も出来る。

式三番叟

上の画像は「式三番叟」の人形だが、現在でも三番叟は、人形座が各地で公演を行う前に、無事安全を祈願して奉納が行われているそうだ。YouTubeで探すと5年前の正月に「淡路人形浄瑠璃館」座員によって三条八幡神社脇宮戎社に奉納された、三番叟奉納の動画が見つかった。
http://www.youtube.com/watch?v=q0ITUqyUmJY

人形浄瑠璃といえば「文楽」の方が今は有名だと思うのだが、もともと「文楽」は淡路出身の浄瑠璃語り植村文楽軒(1751-1810)による人形芝居が大阪で人気を博して広まったものだそうだ。文楽も淡路人形浄瑠璃も三人で人形を操るのは同じだが、決定的に異なるのは技芸員は文楽は男性だけなのに対し淡路人形浄瑠璃の場合は太夫や三味線に女性が多いことと、人形が文楽と比較してかなり大きいことだという。淡路人形浄瑠璃は人形が大きいゆえに表情がわかりやすく、素朴で迫力があると海外でも評価が高く、海外公演も何度も行われているようだ。

地元の三原高校には創部60年近い歴史を誇る「郷土部」があり、淡路人形浄瑠璃の伝統の継承に取り組んでいる。2年前の朝日新聞の記事によると、ハンガリーやカナダ、台湾、フランスと計4度の海外公演も経験し、卒業生のうち7人は「淡路人形座」でプロとして活躍しているという。
https://aspara.asahi.com/column/bunkasai/entry/99gmdmTW3I

たまねぎ畑

資料館を出るとすぐ横の畑で玉葱の収穫をされていた。淡路島は玉葱の名産地だが、これだけ大規模な玉葱畑の収穫を初めて見た。

淡路島に来れば必ず玉葱を買うのだが、いつも買う場所は決めている。今回も予定通り、県道31号からウェルネスパーク五色に行く坂道の途中にある「菜の花農園」という直売所に行く。

菜の花農園

農業を営むオーナー夫妻が米や野菜を販売しているが、ここの名物おばちゃんとの会話が実に楽しい。話しているうちに、淡路島でしか出回らない「七宝大甘(しっぽうおおあま)」1箱を勧められて買ってしまった。

七宝大甘

今回買ったもので直径が12-14cm程度だが、以前はもっと大きいものを買ったことがある。 この品種はちょっと割高だが、甘みがあって辛みがなく、サラダで食べるのに最高の玉葱だ。

このブログで時々書いているが、私は車を走らせては野菜や果物を産直販売所で買ったり農家から直接買ったりすることが多い。野菜や果物の本物の味はこういうところのものを買わないと味わえないし、生産者の地元で買うことが地元にとっても良いことだと思うからだ。

大手スーパーは、流通コストを下げ、廃棄を減らすために、腐らないよう、傷まないよう、運びやすいように、農家には農薬を使って実が熟さない段階で大量に刈り取り出荷することを指導してきた。だから都会の消費者の大半は、本物の野菜や果物の美味しさを忘れてしまっているか知らないままでいるのが現状だ。
また、今のやり方では、大半の農家は大手流通に買いたたかれて利益はほとんど残らない。利潤を蓄積していくのは、主に大手流通業者だろう。農業では生活ができないために田舎で若者は都会に出て働くこととなり、そのために田舎は高齢化・過疎化が進んでいくばかりだ。

何百年もかけて固有の文化や伝統を培い継承してきた地域は淡路島に限らず全国各地にあるが、多くの地域でその文化や伝統を支えてきた仕組みが崩れてきている。
地域の文化や伝統はその地域経済の豊かさによって支えられてきたのだが、都会資本の企業に席巻されて多くの商店や製造業者は廃業し、多くの農家は後継ぎが都会に定住して戻ってこない。この流れを放置したままで、素晴らしい地方の文化や伝統をどうやって後世に残すことができるのだろうか。
文化や伝統だけでなく文化財も同様だ。檀家や氏子が減っていくばかりの寺社がどうやって、古い建築物や仏像などの文化財を守れるのかと思う。

田舎の高齢化・過疎化が更に進んでいけば、水源の維持管理や治安や防災や道路の維持管理から文化財の修理や管理などの大半のコストを、いずれは都市住民が負担せざるを得ない時代が来ることになってしまうだろう。個々の企業が利潤を追求することを放置したままでは、この流れが止まることはないのだと思う。

しかし、都会の消費者が田舎に行って地域の農産物や特産品を買ったり、ネットで地元の農家に注文して買うなどして、直接地方の生産者や地元業者から一次産品や加工品などを買う人が増えれば増えるほど、その地域は潤う。少しでも多くの都会の消費者がそういう行動をとることによって、田舎の高齢化・過疎化や地方文化の消滅の危機が少しは解消方向に向かうことにはならないのだろうか。補助金などをもらって生きるのではなく、生産したものが売れて生計がたてば、田舎で生活することに誇りが持てる効果もあるだろう。

東日本大震災を機に、高知県で津波の怖れのある都市部と高齢化で悩む山間部とがタッグを組んで共存共栄を図る動きがあることを知ったが、このような動きが全国で拡がっていけば、地方に若い世代が家業を継いで、地域の文化と伝統を守ることにつながるのではないかと期待している。
http://www.asahi.com/kansai/kouiki/OSK201106090040.html

話が随分飛んでしまったが、地域の伝統文化を守るためにはそれを支える人々の経済をも配慮する必要があり、地元で若い人が残って文化が継承されるようにしていくことが大切だということが言いたかった。要するに三世代同居の家のない地域に文化の継承は難しいのだ。

「菜の花農園」の名物おばちゃんに別れを告げてさらに坂を登ると、「ウェルネスパーク五色」があり「高田屋顕彰館・歴史文化資料館」がある。

辰悦丸

この資料館は幕末の英雄・高田屋嘉兵衛の業績や生涯を紹介する施設で、高田屋嘉兵衛がはじめて持った船である辰悦丸を2分の1のサイズに復元した模型や、当時の船に使われた道具、蝦夷地の地図などの北方資料や高田屋の経営文書などが展示されている。

高田屋嘉兵衛の話は長くなるので、もう少し勉強してからいずれチャレンジすることにしたい。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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