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仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4

前回の記事で、『日本書紀』の「書」という文字は、日本列島の中に「日本国」とは別の有力な国家が存在していたことを意味しているという中小路駿逸氏の論文を紹介した。この論文を読むと、「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」という日本史の常識に、誰しも大きな疑問を持つことになるだろう。

前回記事の最後に、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いたが、学生時代には「仏教伝来」は「538(ご参拝)」と年代を覚え、552年という説もあることを学んだ記憶がある。
584年説は中小路論文を読んで初めて知ったのだが、一体どの説が正しいのだろうか。

たとえば『もういちど読む山川の日本史』には、こう解説されている。
「百済の聖明王からの公式の仏教伝来の年代については、壬申年=552年と戊午年=538年の二説がある。」前者は『日本書紀』の説だが、その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっていることなどにより、信頼性が少ないといわれる。これに対し後者は、元興寺(飛鳥寺の後身)の由来を書いた『元興寺縁起』や聖徳太子の伝説『上宮聖法王帝説』が説くところで、これらの記事は『日本書紀』よりも古い史料にもとづいて書かれていると考えられ、当時の朝鮮半島の政治情勢からみても不自然ではないので、現在は538年の方が有力である。」(『もういちど読む山川の日本史』p.22)

いちおうもっともらしく書かれているが、古代史学は都合次第で『日本書紀』を重視したり軽視したりするところが面白い。
552年説、538年説、584年説は、どのような記録を根拠にしているのか、少し興味を覚えたので調べることにした。
日本書紀巻第19

まず552年説は『日本書紀』巻第十九欽明天皇13年(552)にこう書かれている。
「冬十月、聖明王は西部姫氏達卒怒唎斯致契(せいほいきしたつそつぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋(はたきぬがさ)若干・經論(きょうろん)若干卷をたてまつった。別に上表し、仏を広く礼拝する功徳をのべて『この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公・孔子もなお、知り給うことができないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、譬(たと)えば人が随意宝珠(物事がおもうままになる宝珠)を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明(やつがれめい)は、つつしんで侍臣の怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣わして朝(みかど)に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです』といった。
この日天皇はこれを聞き給わって、欣喜雀躍され、使者に詔して『自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども自分一人で決定しない。』といわれた。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.35-36)
蘇我氏系図

欽明天皇は蘇我稲目と物部尾輿、中臣鎌子に意見を聞き、物部尾輿と中臣鎌子は「仏を参拝すると国の神の怒りを受けることになる」と反対したが、蘇我稲目だけが賛成したという。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて礼拝させることにしたのだが、後に国に疫病が流行し多くの死者が出た。物部尾輿、中臣鎌子はその原因は蘇我稲目が仏教を信奉したことにあるとし、天皇に仏像を捨てるべきであることを奏上し天皇もそれを認めたので、その仏像は難波の堀江に流し捨てられたことが『日本書紀』に明記されている

山川日本史によると、この『日本書紀』の記録については、「その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっている」ことを根拠に、この記録の信頼性が少ないと考えるのが定説となっているのだそうだ。

多数説とされているのは538年説なのだが、この説は『日本書紀』よりもあとに成立した『元興寺伽藍縁起』、『上宮聖徳法王帝説』の記録に基づくものだという。
そこにはこう書かれている。

大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度(わた)り来たるより創(はじ)まれり。(『元興寺伽藍縁起』:下記URLに現代語訳あり)
http://www.ookuninushiden.com/newpage24.html

志癸嶋(しきしま)天皇の御世戊午年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむる也。(『上宮聖徳法王帝説』)
http://www2.shiba.ac.jp/~shakaika/newpage4.htm

上宮聖徳法王帝説

「斯帰嶋」あるいは「志癸嶋」は欽明天皇が宮を置いた場所とされ、「天国案春岐広庭天皇」あるいは「志癸嶋天皇」は欽明天皇のことだと理解されているのだが、538年というのは宣化天皇三年であり、欽明天皇の御代ではないことがなぜ無視されるのだろうか。
欽明天皇の即位は540年で571年に崩御されたのだが、在位されている間に戊午の年は存在しない。538年説はどう考えても説得力が乏しいのだが、古代史学界ではこの説が多数説だという。

では、584年説についてはどのような記録があるのか。
『日本書紀』巻二十敏達天皇十三年の記録にこう書かれている。

「秋九月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像一体をもってきた。
この年、蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)は、その仏像二体を請いうけ、鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池邊直氷田(いけべのあたいひた)を四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国(はりまのくに)に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女、嶋を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。…善信尼の弟子2名も出家させた

馬子宿禰・池辺氷田・司馬達人たちは仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.67-68)

最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる。

以上、「仏教伝来」についての時期について、3つの説の根拠となっている記録を紹介したが、この中で一番まともな説は最後の584年説ではないだろうか。
前回紹介した中小路駿逸氏の「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文における仏教伝来についての記述が私には一番納得できる。この論文は次のURLで全文が紹介されている。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

「(584年の)この事件が、『日本書紀』では「仏法の初め」と呼ばれているのである。
『日本書紀』のこの記述は、きわめて正常なものである。
第一に、仏法の伝来とは、僧または尼がその地で受け入れられ、供養を受けはじめることをこそいう。
第二に、右の事件に先立つ欽明十三年(552)に、百済王から仏像その他の物品が贈られてきた記事があり、世にはこれがわが国への仏法伝来を告げる一史料であるかのように扱われてきたが、記事そのものをそのままに読めば、これは僧が来たものでもなく尼が来たものでもなく、ただ“仏教文物”のみがもたらされ、しかも群臣の意見が徴された上で、天皇としても朝廷としても、仏法を受けいれないことにした事件である。
第三に、『日本書紀』にはこの欽明朝の事件が、仏法の初めとはされていない


ところで『日本書紀』に、仏教が播磨から伝わった事件が、たんに『仏法の初め』とのみしるされていることは、何を意味するか。
明らかである。
六世紀後半の敏達朝において、わが王権は、まだ播磨をも領せざる一地域権力であった。当然、播磨は、“我が国”とは別国、ないし別国に属する地であった。――そう『日本書紀』の問題の本文は告げている。――このことを意味する。
仏法が別の国からわが国に伝わって、僧(尼)の供養が行われはじめたときをもって『仏法の初め』と称する。『日本書紀』の記述ぶりは、まことに正常ではないか。」(p.13-14)

さらに中小路氏は538年説に対する反論もなされている。
「また上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』に、欽明朝の戊午の年に百済から僧が派遣されて仏法が伝来したと書いてあるのは、仏法伝来には違いないものの『紀』にいう前記の『仏法の初め』とはまったく別の事件であって、すなわち欽明朝の大和の事件ではなく、大和よりまえに九州の宮廷に仏法が受容された事件であり、その年代は五世紀最初の戊午の年(418)である蓋然性が最も高いことも、私はすでに別に述べた。」(p.14-15)
と、中国や半島と通交のあった九州王朝においては5世紀には仏法が受容されていたと述べている。

いろいろ調べていくと、『三国史記』に中国の僧が朝鮮半島に仏教が伝えた記録があり、高句麗には372年、百済は384年に仏教が伝わり、それぞれ寺も建立している。また『三国遺事』には倭国(九州王朝)と緊密な関係にあった百済について、「阿莘王即位大元十七年(392)二月。教え下し仏法を崇信し福を求めさせる。」と書かれており、4世紀の終わりごろ百済は国を挙げて仏教が興隆していた時期であり、その頃に百済から九州に仏教が伝来した可能性はかなり高かったのではないだろうか。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html

もともと、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないのだが、わが国の古代史は「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」ことを前提とし、中小路氏の言葉を借りると、「その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する」スタンスで研究がなされ、教科書の記述も同様だ。したがって、その大前提が崩れてしまうとわが国の古代史は全面的に書き換えざるを得ないことになる
釈迦三尊像
ちなみに中小路氏の専攻は日本文学だ。専門外の学者の指摘で「古代史」がひっくり返されるのは古代史学界の面子にかかわるとでも考えているのだろうか。
中小路氏の論文が発表されて25年にもなるのに、古代史学界の住人はこの論文を無視して、いまだにまともな反論をしていないようである。

前々回の記事で読者の方から、「その当時の出土品等はすべて大和に結び付けないと、学会やマスゴミから異端扱いされるか無視される。はては既知外扱いされますので研究者は本当のことが言えなくなります。現代の日本の古代史学会等は『カルト』と考えておけば間違いない」とのコメントを頂いたが、私もよく似た話を何度か聞いたことがあるし、ネットでもそのような記事が散見される。
学者である以上、既存の学会の権威を維持するためにではなく、真実は何かを追及するために全てのエネルギーをぶつけて欲しいものである。

古田氏や中小路氏らの提起した問題に斬り込まずして古代史の真実は見えて来ないと思うし、その問題に正面から立ち向かう研究者が古代史学界から数多く現われないことには、何年たっても教科書の古代史記述は変わらないのだと思う。
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法隆寺再建論争を追う

古代史の話題が続いて恐縮だが、今回は「法隆寺再建論争」のことを書くことにしたい。

学生時代に法隆寺は世界最古の木造建築物だと学んだ記憶があるが、その法隆寺が再建されたものなのか、建立された当時のままなのかという議論が明治時代からはじまっていて、若草伽藍の発掘が終わって再建論が確定したかと思いきや、未だに議論が続いているようなのだ。
法隆寺

では再建論と非再建論は何を根拠としているのだろうか。

論争のことを書く前に、法隆寺に関する『日本書紀』の記録を読むことから始めたい。

日本書紀』巻二十七天智天皇八年(669)の十二月には
「この冬、高安城を造って、畿内(うちつくに)の田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺(法隆寺)に出火があった。」(現代語訳:『日本書紀 下』講談社学術文庫 p.234)

さらに翌年の天智天皇九年(670)の四月には
夏四月三十日、暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。」(同上 p.235)とある。

「斑鳩寺」は「法隆寺」の古名であると考えられていて、上記の訳文には「法隆寺」とカッコ書きされているが、原文では「斑鳩寺」と書かれているだけだ。
このように「斑鳩寺」=「法隆寺」と考えるのが多数説で、この解釈ではわずか数カ月の間に二度も法隆寺が焼けて、二度目の火災で全焼したことが書かれていることになる。

しかし『日本書紀』の作者が、わずか数行の違いで同じ寺院のことを「斑鳩寺」と「法隆寺」と別々の名前で書き記すことは不自然であるとし、この2つの寺は別の寺であるという考え方もあるようだ。
私もその考え方の方が正しいのではないかと思うのだが、『日本書紀』に全焼したと書かれているのは「斑鳩寺」の名前ではなく「法隆寺」と記されているので、『日本書紀』を普通に読めば、法隆寺は全焼したと理解するしかない。(原文:「災法隆寺 一屋無餘 大雨雷震」)。

ところが、このような『日本書紀』の記録があるにもかかわらず、法隆寺は聖徳太子創建のままであるとの伝承が古くからあったようなのだ。
明治時代にこの『日本書紀』天智天皇九年(670)の記録を根拠に法隆寺再建説が出され、これに対して建築史・美術史の立場から反論が行われて、歴史界を二分する論争となったという。

法隆寺再建説は、『日本書紀』のこの記録は信頼できるものであるとする立場だが、非再建説は、以下のようなものであったとWikipediaに纏められている。

「・法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている
・薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である
日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。など」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA

「論争」という言葉のイメージとは異なり、議論がまったくかみ合っていないのだが、要するに非再建説は、自説に矛盾する『日本書紀』の記載が誤りであるとして強弁している。
前回の記事で中小路駿逸氏が古代史学界を批判した「その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する」スタンスそのものである。

もし法隆寺が創建以来一度も火災にあっていないならば、『日本書紀』に火災の記録のある天智天皇九年(670)以前の遺物が沢山出て来なければ筋が通らない。
再建説の論客であった喜田貞吉(きた さだきち)氏の『法隆寺再建非再建論の回顧』という論文が青空文庫にあり、それを読むとこう書かれている。
天平十九年(747)の資財帳を見るに、法隆寺にはその寄附者及び特に年代を明記する程の由緒ある遺物は、通計百六十八点に達していたが、その中天智天皇九年(670)以前の物は、僅かに釈迦・薬師の両本尊と、片岡御祖命なる人の寄附に係る金銅幡との、ただ三点あるのみであった。その後和銅初年(708)以前の物と認むべきものが七点で、その他の百五十八点はことごとく和銅以後天平十九年以前の物のみである。しかるに同じ年の大安寺資財帳を見ると、この寺は草創以来明らかに数度火災に罹ったもので、ことに扶桑略記によれば、近く和銅四年(711)にも炎上し、大安寺碑文と称するものにもこの寺焼失の事が見えているにかかわらず、その現存遺物の数においては、これも法隆寺と同じく、寄附者及び年代を特記する程の由緒ある物総計百六十三点の中、天智朝(668-671)以前の物実に十五点、和銅初年以前の物四点、その以後の物百四十四点となっているのである。これはむしろこの法隆寺が、天智天皇九年において、一屋無余と云われる程の大火災に罹ったが為に、かくその以前の貴重なる遺物が伝わらなかったと解するを至当とすべきものでなければならぬ。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49819_44337.html

要するに喜田貞吉氏は、天平19年(747)の資財帳で確認すると世界最古の木造建築だという法隆寺よりも、和銅4年(711)に炎上した記録のある大安寺の方に、はるかに多くの古い文化財が残されていた記録が残されている事実を指摘しておられる。『日本書紀』に法隆寺が焼けたという記録のある天智天皇九年(670)以前のものは、法隆寺に3つしかなく、大安寺の方がはるかに多かったようなのだ。
こういう「不都合な真実」を無視する非再建論者を喜田氏は、先ほど紹介した論文でこう批判している。

「法隆寺が天智天皇九年庚午の歳四月三十日の夜半において、一屋無余の火災に罹ったとの日本紀の記事は、何としても絶対疑うべからざるものである。これを裏切る一切の諸説は、そのいかに実らしく見えるものといえども、ことごとく採るに足らざるものである。またこの絶対的信用価値ある史料の真価を解せずして、実物上の研究より組立てられたる一切の非再建説は、ことごとく妄想に過ぎざるものである事を断言する。」

この論争の解説を普通の人が普通に読めば、再建説の方がはるかに説得力があるように思うのだが、当時の非再建論者は何にこだわったのかが気になるところだ。
Wikipediaによれば、非再建論者は建築史上の様式論にこだわり、「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念があったというのだが、わかりやすく言うと飛鳥→白鳳→天平と展開していく建築様式の変化の中で、法隆寺を一番古い飛鳥様式としていた通説が、再建があったかなかったかで根本から崩れることになってしまうということなのだろう。
建築史の学者だけではなく、美術史の学者も同様に非再建説を唱えた。
法隆寺には飛鳥、白鳳時代の仏像や絵画が集中しているとされていたために、法隆寺が焼失していたとすれば美術史の通説も書き換えざるを得なくなると考えたのではないか。
法隆寺伽藍址

要するに、主に建築史、美術史の学者がそれぞれの通説を守るために、長い間噛みあわない論争が続けられたようなものだが、昭和14年(1939)に「若草伽藍」の発掘調査がなされ、伽藍配置が四天王寺式(中門・塔・金堂を南北一直線に配する様式)であったこと、また当該地に焼跡が確認され、再建説を決定的たらしめる発見が相次いだ。

法隆寺壁画片記事

また、2004年12月には、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表されて、今では再建説が主流となっているのだが、しかし非再建説が完全に否定されたというわけでもないようだ。

法隆寺五重塔心柱

X線を使って樹木の年輪からその木の樹齢を割り出すことが出来るのだそうだが、その測定方法により法隆寺の五重塔の心柱を測定すると594年に伐採された檜であることが確認されているという。

また、法隆寺金堂の釈迦三尊像の台座裏から、「辛巳」(621年)の年号のある墨書が見つかっている。さらに平成3年には、下壇の台脚部裏から墨絵の天部像と数種類の墨書が発見され、近年の奈良国立博物館と奈良国立文化財研究所の調査によると、これらの制作年代は七世紀前半を下らないとの結果がでたのだそうだ。
法隆寺金堂柱

そればかりではない。法隆寺金堂の中にある天蓋に使われている木材も606年ごろに伐採された木材が使われているという。
『日本書紀』に法隆寺が全焼したという記録があるのは670年のことである。なぜ、そんなに古い木材が残されているのか、誰でも不思議に思う。

また阿弥陀如来像の台座裏からは、七世紀初めの朝鮮半島から日本を訪れた使節をスケッチしたと見られる人物像が発見され、このことが非再建論にまた火をつけることになったそうだ。

法隆寺金堂

法隆寺金堂の火災が拡がる前に、釈迦三尊像などが安全な場所に運び出さすことが出来たのか、もしくは、法隆寺は火災後に一部の寺の建物が移築され、その時に釈迦三尊像などが運び込まれたか、いずれかということになるのだろうか。

前回および前々回の記事にも書いたが、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録がある。それまでは大和には僧侶もいなかったし、寺院もなかったと考えるのが自然だ。
次のURLは古田武彦氏の説を支持しておられる大越邦生氏の論文だが、それによると「法隆寺西院伽藍と同型(≠同笵)の瓦は西日本から九州にかけて広く分布」しており、とりわけ播磨にあった2つの寺に注目しておられる。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tagen44/oogosi44.html
果たして法隆寺は、播磨以西の大寺から移転されたのか。果たして、法隆寺の移転を裏づける、大量の瓦や古代寺院の伽藍址が発見される日は来るのか。
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聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか

以前このブログで、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いた。「播磨」は今の兵庫県の南西部にあたる地域のことである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html
このことは、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味しているのだが、どういうわけか『日本書紀』巻二十の重要な記録が日本史の通説で取り上げられることがないのだ。そこにはこう記されている。

「(敏達天皇13年:584年)秋9月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像(ほとけのみかた)一体をもってきた。
 この年、蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請いうけ、鞍作村主司司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池辺直氷田(いけべのあたいひた)と四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女(むすめ)、嶋(しま)を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。――年齢11歳。――善信尼の弟子二人も出家させた。その一人は漢人夜菩(あやひとやぼ)の女 豊女(とよめ)で名を禅蔵尼(ぜんぞうのあま)といった。もう一人は錦織壺(にしこりのつぶ)の女 石女(いしめ)で、名を恵善尼(えぜんのあま)といった。馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼をあがめ尊んだ。三人の尼を氷田直(ひたのあたい)と達等に託して衣食を供させた。仏殿を馬子の家の東方に造って、弥勒の石像を安置した。三人の尼を招いて、法会の斎食(いもい:仏に備える食を盛った椀)を供した。…
馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等たちは、仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀』p.67-68)

最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているのだが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる

百済聖明王

日本書紀』には欽明天皇13年(552)年に百済の聖明王が使者を遣わして、わが国に仏像や経典を伝えた事が書かれているが、僧侶や尼が来たわけではなくただ仏教文物が宮中にもたらされただけのことで、このことがわが国に仏教が広まるきっかけになったとはどこにも書かれていないのである。わが国の仏教の広まりは、『日本書紀』に明確に書かれているとおり、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便という僧を師としたことから始まるのである

とは言いながら、仏教は容易には広がらなかった。翌年の敏達天皇14年(585)には排仏派の物部守屋が「蘇我氏が仏教を広めたことで疫病が流行した」と奏上し、敏達天皇はその言い分を認めて「早速仏法をやめよ」との詔を出しておられる。そこで物部守屋らは仏像と仏殿に火をつけ、さらに善信尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち:奈良県桜井市)の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭打つ刑にしたと、『日本書紀』に記されている。

仏教の受容をめぐる蘇我氏と物部氏との対立はその後も続いて、587年の丁未の役で蘇我馬子が武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着し、その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位(593年)してようやく仏教受容に対する抵抗勢力が消滅して、わが国に仏教が急速に広まっていくのである。

ではなぜ、仏教がわが国で広まっていない敏達天皇の時代に、播磨国に恵便という仏教の僧侶がいたのだろうか。
朝鮮半島に於いて、わが国より先に仏教が伝えられていた。、百済・高句麗には4世紀の終わり、新羅には5世紀の初めに伝わったと言われているが、わが国にはこの頃朝鮮半島からわが国に渡ってきた渡来人によって、宮中に仏教が伝わる以前から仏教が信仰されていたようである

Wikipediaに、先ほど引用させていただいた『日本書紀』巻二十の敏達天皇13年の記録に出てくる司馬達等という人物の解説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%94%E7%AD%89
それによると司馬達等は継体天皇16年(522)に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したということが『扶桑略記』という書物に記されているという。この司馬達等の孫が法隆寺金堂本尊の国宝釈迦三尊像を制作した仏師である鞍作止利(くらつくりのとり)である
また司馬達等とともに仏法を深く信じ修行を怠らなかったと書かれていた、池辺氷田という人物も中国系の渡来人である。

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蘇我馬子の仏教の師となり、わが国に仏教を広めた播磨国の恵便も渡来人であったが、弥生時代以降、数多くの渡来人が日本列島に移り住んでいた
『日本書紀』には断片的に渡来人のことが書かれているので一部を紹介すると、欽明天皇元年(532)の8月に、「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)ら近くの国から帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して戸籍にいれた。秦人の戸数は、全部で七千五十三戸で、…」と書かれている。渡来人は戦火を逃れて来た人々と考えられており、5世紀末に百済が高句麗に圧迫されると、さらに多くの人々が日本に渡来してきたという

煬帝

『隋書倭国伝』を読み進むと、第二代皇帝の煬帝(ようだい:在位604-618)が608年に倭国に使者を送ったことが書かれていて、そこには倭国と他国との位置関係についてこう記されている。
「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。裴世清はまず百済(ひゃくさい)に渡り、竹島(ちくとう)*に至った。南方に𨈭羅国(たんらこく)*を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国(つしまこく)*に至り、そこからまた東に航海して一支国(いきこく)*に着き、さらに竹斯国(つくしこく)*に至り、また東に行って秦王国(しんおうこく)*に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷洲(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する**。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)」
*竹島(不明。済州島の近くの多島海のどれかの島であろう)、𨈭羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国(不明。山口、広島県方面か。新羅系の秦氏の居住地とも考えられる。)
**原文では「竹斯國以東皆附庸於俀」

この文章を普通に読めば、筑紫国と倭国とは別の国であり、倭国は筑紫国の東にあった。そして倭国の中に中国系の人々が住む地域があったと理解するしかない。
中国の正史にこのような事が書かれていることをわが国の教科書に載せないのは、4世紀に大和朝廷がわが国を統一したという通説と矛盾するからなのか。

korea_1.jpg

渡来人は中国系だけでなく百済系、新羅系、高句麗(高麗)系の人々もかなりいた。
渡来人の人口については教科書には記されていないが諸説があり、渡来人は日本列島の原住民よりもはるかに多かったという説が結構有力なようだ。当時は統計記録があった訳ではないので詳しいことは分からないが、日本列島に住む人々のかなりの割合を渡来人が占めていた可能性が高そうだ。

そして、渡来人の中で仏教の僧侶を経験した恵便という人物がいたというわけだが、驚くべきことに、わが国に仏教を広めたこの恵便という僧にゆかりのある寺院が、今も兵庫県にいくつか残されているのである。
前置きが長くなったが、どんな寺院なのか行ってみたくなって、これらの寺を巡りながら紅葉を楽しむ旅程を組んで先日探訪してきた。

まず最初に訪れたのが加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)。

鶴林寺仁王門

上の画像は室町時代に建築された仁王門(兵庫県指定文化財)である。
仁王門の近くにある案内板にこの寺の略縁起が綴られているが、そこには
「当寺は今から千三百年余り前に物部守屋の難を逃れて隠棲していた高麗の僧恵便法師の徳を慕うて聖徳太子が来臨され、秦川勝(はたかわかつ)に命じ、太子堂を建立して釈迦三尊四天王を祀り四天王聖霊院と名付けられたのが始まりである
その後養老2年元正天皇のとき武蔵国の太守大目身人部春則が太子の偉徳顕彰のため七堂伽藍を建立し、境内二十四丁四面三百坊を有し、衛士百余人、楽人数十人、寺領二万五千石を領して反映した。
鳥羽天皇臨幸勅願寺となり、鶴林寺の額を賜り今日に至る。…」
とある。パンフレットによると創建は587年だとあり、589年という説もあるようだが、わが国で最も古いとされる蘇我氏の氏寺の飛鳥寺(法興寺)の建立を発願された年が用明天皇2年(587)で、推古天皇4年(596)11月に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」と『日本書紀』に記されている。鶴林寺はそれほど古い歴史を持つ寺なのである。

聖徳太子

鶴林寺の略縁起に聖徳太子の名前が出てくるのだが、聖徳太子は敏達天皇3年(574)に生まれというから、聖徳太子が13歳か15歳の頃に鶴林寺の前身である『刀田山四天王聖霊院』が建立されたことになる。
その後養老2年 (718) に武蔵の国司「身人部春則」が太子の威徳顕彰の為七堂伽藍を建立し、天永3年(1112)に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。国宝の太子堂はこの年の建立と伝えられている。
太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあったというが、江戸時代には8カ坊117石に激減し、明治期の廃仏毀釈を潜り抜け、今では3カ寺、15千坪の境内となっている。

kakurinji.jpg

minagaさんのHPに鶴林寺の古写真や古絵図が紹介されている。
文化元年(1804)に出版された『播磨名所巡覧圖會:巻之2』に当時の鶴林寺の境内図が掲載されているが、この境内図を見ると、昔は本堂と太子堂や常行堂は回廊で繋がっていたようだが、今はそのような回廊はない。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/tou_kakurinji.htm

仁王門をくぐると、室町時代に建築された入母屋造の本堂(国宝)が見えてくる。

鶴林寺本堂

内陣には平安時代に制作された薬師三尊像と毘沙門天像、持国天像(いずれも国重文)が安置されているのだが、秘仏であるために60年に一度しか開帳されないのだそうだ。次回の開帳は平成69年なのだそうだがあと45年も待たねばならず、私のような年齢の者には観るチャンスはほとんど訪れないだろう。

鶴林寺太子堂

この本堂の東側にあるのが、平安時代に建築された国宝の太子堂。
内部は公開されていないが、堂内に安置されていた本尊釈迦三尊像(国重文)は宝物館で見ることが出来る。また堂内の壁画(「九品来迎図」「仏涅槃図」)も国の重要文化財に指定されているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真でようやく壁画を見ることが出来るそうだ。宝物館で、高木かおり氏により彩色復元された壁画が展示されている。

鶴林寺三重塔

この寺には、常行堂(平安時代)、鐘楼(室町時代)、行者堂(室町時代)、護摩堂(室町時代)も国の重要文化財に指定され、三重塔(室町時代)は兵庫県の指定文化財である。仏像や工芸品にも多くの国の重要文化財があり、「播磨の法隆寺」とも呼ばれているのだが、観光客は決して多くはない。
宝物館で重要な仏像や仏画が保管され展示さているのだが、平成15年(2003)に国の重要文化財である『聖徳太子絵伝』6幅と『阿弥陀三尊像』1幅、市指定文化財『釈迦三尊十六善神像』が、韓国人に盗まれる事件があった。

阿弥陀三尊像

『聖徳太子絵伝』『釈迦三尊十六善神像』は犯人逮捕により取り戻すことが出来たが、高麗時代の作品である『阿弥陀三尊像』は、韓国の大邱市の寺で2004年に発見されたものの、その寺は盗難品とは知らずに寄付を受けたものであるとして所有権を主張し、鶴林寺に返還される見込みはないのだという。

昨年秋にも、対馬の観音寺にあった長崎県指定文化財の観世音菩薩坐像が窃盗団によって盗まれた事件があったが、韓国政府は犯人を処罰しながらもこの仏像を国宝に指定して返還しない。
この手法は、平成6年(1994)に長崎の安国寺の宝物殿から『高麗版大般若経』493帖が盗難された時も行われていて、韓国政府は国宝に指定して返却する気がない。ネットで探すと他にも多くの文化財が盗難されているようだ。

国連教育科学文化機関(ユネスコ)憲章に「不法に搬出された文化財は元の所有国に戻すべき」と書かれているそうだが、わが国政府もただ韓国政府にただ調査を依頼するだけではなく、世界に事実をアピールし、返却のための本格交渉に取り組んでほしいものである。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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