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継体天皇ゆかりの足羽山から紅葉名所の大安禅寺へ ~~越前の歴史散策2

昼食のあと福井市の足羽山(あすわやま)に向かう。
前回の記事で越前和紙の歴史は、第26代の継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として越前を治めていたころから始まることを書いたが、足羽山には継体天皇にまつわる神社などがある。

『日本書紀 巻十七』には継体天皇の出自に関して次のように記されている。文中の男大迹天皇(おおどのすめらみこと)は継体天皇のことである。

男大迹天皇――またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)――は、応神天皇の五世の孫で、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子である。母を振姫(ふりひめ)という。振姫は垂仁天皇の七世の孫である。天皇の父は振姫が容貌端正で大そう美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使を遣わして越前国坂井の三国に迎え、召し入れて妃とされた。そして天皇を産まれた。天皇が幼年のうちに父王が死なれた。振姫はなげいて『私はいま遠く故郷を離れてしまいました。これではよく孝養をすることができません。私は高向(たかむこ:越前国坂井郡高向郷)に帰り、親の面倒をみながら天皇をお育てしたい』といわれた。
 成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。武烈天皇は五十七歳で、八年冬一二月八日におかくれになった。もとより男子も女子もなく、跡嗣が絶えてしまうところであった。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.346)

継体天皇
継体天皇

このように『日本書紀』では、継体天皇は応神天皇の「五世の孫」とは書いているが、応仁から継体に至る中間の四代の系譜については記されていない。鎌倉時代に記された『釈日本記』という『日本書紀』の注釈書に引用された『上宮記』の逸文によってその系譜が記されているそうだが、その内容が信頼できるかどうかについては議論が分かれているという。
とは言え、『日本書紀』の記述通り応神天皇から血がつながっていたとしても、継体天皇は天皇家の傍系の血筋であることは変わりなく、即位後に先帝の妹を皇后として迎えることによって自らの血の薄さを補強しようとしたことは確実であろう。

血筋の問題はともかくとして、男大迹王は母の故郷である越前で育てられ、越前国の王となってからは現在の九頭竜川、足羽川、日野川の治水に取り組まれて、農業を盛んにされ諸産業を興隆された伝承が残されており、越前開闢の御祖神(みおやがみ)として、称えられ崇敬さけてきた人物であるのだ。

第二十五代の武烈天皇が跡継ぎを定めずに崩御された際に次期の天皇として白羽の矢が立ち、男大迹王は力不足を理由に何度も断ったのだが、大連・大伴金村らは次のように男大迹王を説得したという。

「大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲の礼を繰り返された。大伴大連らは口をそろえて『私たちが考えますのに大王(男大迹天皇)は、人民をわが子同様に思って国を治められる、最も適任のかたです。私たちは国家社会のため、思い図ることは決してゆるがせに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れ下さい。』とお願いした。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.348)

天皇家の跡継ぎが途切れそうになった場合に、血筋がつながっていれば誰を持ってきても良いわけではなく、天皇家を継ぐことのできる器の人物でなければならなかった。
『日本書紀』のこのくだりは、幾分誇張もあるだろうが、男大迹王が越前で善政を行っていた評判が都にも伝わっていたことを匂わせる部分である。

毛谷黒龍神社
【毛谷黒龍神社】

最初に訪れたのは、毛谷(けや)黒龍神社(福井市毛矢3丁目8−1  ☏ 0776-36-7800)。

神社のホームページには由緒・沿革についてこう記されている。
男大迹王越前國御在住の時、地の理に随ひ越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水工事をされ越前平野を拓かれた際に、北陸随一の大河であった黒龍川(九頭竜川)の守護と国土安穏、万民守護のため高屋郷黒龍村(舟橋)毛谷の杜に、高龗神(たかおがみ)、闇龗神(くらおがみ)の二柱の御霊を祀る「毛谷神社」が御創建されました
元明天皇の和銅元年(708)9月20日、継体天皇の御遺徳を景仰し御霊の合祀が行われた。
後醍醐天皇の元徳元年(1329)6月1日神託により越前守参議藤原國房公が北ノ庄菩住山斎屋清水の上に(足羽山)に奉還され、元鎮座の村名を併せ『毛谷黒龍神社』と改称
し、また元神社名を取り麓一帯は「毛矢町」と呼ばれ祭りは賑わい盛儀が行われた。」 
http://www.kurotatu-jinja.jp/010_information/information.php

昔は黒龍川沿いに高龗神、闇龗神の二神を祀る「毛谷神社」があり、和銅元年(708)に継体天皇の御霊が合祀されて「男大迹天皇」が御祭神に加えられ、元徳元(1329)年に足羽山に遷座されたとある。
その後慶長8年(1603)に徳川家康がこの神社を越前松平家の祈願所とし、元禄三年(1609)に現在の藤島神社の社地に神殿が造営されたのだが、明治8年(1875)に現在地に社殿が移築され、現在の社殿は本殿が昭和3年に、拝殿が同6年に再建されたものだそうだ。

藤島神社
【藤島神社】

毛谷黒龍神社の駐車場から藤島神社(福井市毛矢3丁目8−21 ☏ 0776-35-7010)に向かう。

藤島神社 拝殿
【藤島神社 拝殿】

この神社の主祭神は鎌倉時代末期から南北朝時代に南朝側で活躍した南朝方の武将・新田義貞で、その子の義顕、義興、義宗と弟の脇屋義助、および一族の将兵が祀られている

新田義貞公肖像
【新田義貞公肖像】

新田義貞は延元元年(1338)に灯明寺畷の合戦で戦死したのだが、それから約300年後の明暦2年(1656)に合戦のあった灯明寺畷の水田(この神社から約4km北)から兜鉢が発掘され、これが福井藩の軍学者の鑑定の結果新田義貞の兜であるとされたという。福井藩主・松平光通はこの発見場所に碑を建て、「新田塚」と名付けられ、明治3年(1870)に祠が建てられ、同9年(1876)に「藤島神社」として別格官弊社に列せられた。この神社が現在地に移建されたのは明治34年(1901)のことであるが、この場所は、以前は継体天皇を祀る前述の毛谷黒龍神社の境内の一部であったことになる。

継体天皇石像
【継体天皇石像】

足羽山を登っていくと足羽山公園がありその三段広場に継体天皇の石像が建っている。
この像は明治17年(1884)に内山基四郎を中心とした石工たちが、伝説に語られる天皇の業績を顕彰するために制作され、笏谷石*製で高さは4mを超えるものだという。
*笏谷石(しゃくだにいし):足羽山山麓北西部の笏谷からとれる第三紀層の凝灰岩で、少し青みを帯び、なめらかできめが細かく加工しやすい

この石像の建つ小丘は、4世紀に造られた古墳で、円墳としては県内最大級の山頂古墳なのだが、公園を造る際に大きく削られてしまって原形を留めていないのだそうだ。
足羽山の尾根にはかつて30基以上の古墳が存在していたと伝えられているが、現在では15基が残されているのみだという。これらの古墳は4世紀末から5世紀代にかけて築造されたものとされ、足羽郡の豪族であった足羽氏の墓だと推定されている。

足羽神社拝殿
足羽神社 拝殿】

歩いて足羽神社(福井市足羽上町108 ☏ 0776-36-0287)に向かう。
上の画像は神社の拝殿で、下の画像は狛犬だ。親子の狛犬は珍しいので、思わずシャッターを押してしまった。

足羽神社狛犬
足羽神社 狛犬】

この神社は継体天皇と坐間神(いかすりかみ)五柱を主祭神とする古社で、社名は『延喜式』神名帳にも出ている。
神社のHPには、神社の起源について次のように解説されている。
五世紀後半ごろ、男大迹王(後の継体天皇)が越前でお過ごしの間に越前平野の大治水事業をされますが、まずその初めに朝廷に祀られている大宮地之霊(坐摩神)を足羽山に勧請し、諸事の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされています。
 第26代天皇として即位をされ越前を発たれる時に、『末永くこの国の守り神とならん』と、自らの生御霊(いきみたま)を鎮めて旅立たれて行かれました。
 それから継体天皇が主祭神として本殿中央に祀られています
。」
http://www.asuwajinja.jp/

同HPによると、昔の越前国は沼地が多く、人々が住むには限られた土地しかなかったのだが、男大迹王の治水事業により水を海に流して越前平野に道が造られ、住居や農地や道が出来、川を利用して舟で荷物が運ばれるようになり、国が栄えたことが記されている。越前開闢の御祖神(みおやがみ)と呼ばれる理由はこのあたりにあるのだと思う。

『日本書紀』を読み進むと、男大迹王が第二十六代の天皇として即位された約1か月後に、次のような詔が出されたことが記されている。

男が耕作しないと、天下はそのために飢えることがあり、女が紡がないと天下はこごえることがある。だから帝王は自ら耕作して農業を勧め、皇妃は自ら養蚕をして、桑を与える時期を誤らないようにする。まして百官から万人に至るまで、農桑を怠っては富み栄えることはできない。役人たちは天下に告げて私の思うところを人々に識らせるように。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.350)

継体天皇は越前でも同様なスタンスで政治に取り組まれたものと思うのだが、このようなリーダーであったからこそ、今も福井の人々に敬愛されているのだろう。

足羽山をあとにして大安禅寺(福井市田ノ谷町21-4 ☏ 0776-59-1014)に向かう。

大安禅寺 本堂
大安禅寺 本堂】

1300年ほど前に泰澄が創建した田谷寺(でんこくじ)という寺が、天正2年(1574)の織田信長による越前攻略により焼かれて廃絶してしまうのだが、その跡地に藩主の松平光通(みつみち)が、両親や祖先の菩提寺として明暦3年(1657)に創建したのがこの大安禅寺である。

大安禅寺 庫裏
大安禅寺 庫裏】

現在の伽藍はほぼ創建当時の姿をとどめていて、本堂・庫裏・開山堂・開基堂・鐘楼の5棟が国の重要文化財に指定されているのだが、昭和23年(1948)の福井地震の影響で本堂の柱が傾いているほか、建物の屋根や床下で腐食が進んでいることが明らかとなり、来年から本堂など8棟で大規模な修繕工事が始まるのだそうだ。工事は国や自治体の補助を含めて総事業費は22億円で10年以上かけて工事が行われるのだそうだ。

大安禅寺 庭園 2

私が訪れたのは11月9日で、報道各社を集めて修繕工事についての記者会見が行われている最中であったためにしばらく本堂の中に入ることが出来なかったが、そのおかげで大安禅寺の庭や他の諸堂をゆっくり楽しむことが出来た。上の画像は本堂の南側にある阿吽庭で奥に見えるのが開基堂である。また下の画像は本堂の西側の庭である。

大安禅寺 庭園

紅葉はこの日は色づき始めたばかりだったが、この記事をアップする頃は見ごろを迎えているのではないだろうか。

大安禅寺から坂井市三国町の民宿なかじまに向かう。11月6日に漁が解禁されたばかりの越前ガニを求めて民宿をネットで探して選んだのだが正解だった。

越前ガニ

茹でガニでは予想していたよりも大きく、蟹酢を用いずカニ本来の甘さで楽しめて味噌は絶品。雑炊は卵を用いずカニ味噌を用いただけなのだが、これも旨かった。
料金もリーゾナブルで、今度来るときは特大の茹でカニの出るコースに是非チャレンジしたいと思った。

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関連記事

越前和紙で栄えた地域の歴史と文化と伝統の味を楽しむ~~越前の歴史散策1

越前市は品質、種類、量ともに全国一位の和紙生産地として知られているが、この地における和紙作りには1500年という長い歴史があるのだという。そして、和紙生産の中心地である5つの集落(新在家町、定友町、岩本町、大滝町、不老町)を昔から五箇(ごか)と呼び、その大滝町にこの地に紙の製造法を伝えたとされる川上御前(かわかみごぜん)が祀られている神社がある。この神社には立派な社殿があるだけでなく神仏習合の行事が今も行われていて、平安時代の仏像が残されていることに興味を覚え、越前方面の旅行の最初に訪れることにした。
この地域を巡るには、次のURLにある「和紙の里」めぐりの地図がわかりやすい。
http://www.echizenwashi.jp/information/pdf/pamphlet_area.pdf

和紙の里地図

『越前和紙』のホームページに、この地における和紙生産のはじまりに関する『川上御前の伝説』が紹介されている。
http://www.washi.jp/history/index.html

継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として、まだ、この越前に潜龍されておられたころ、 岡太(おかもと)川の川上の宮が谷というところに忽然として美しいお姫様が現れました。
『この村里は谷間であって、田畑が少なく、生計をたてるのにはむずかしいであろうが、清らかな谷水に恵まれているので、紙を漉けばよいであろう』と、自ら上衣を脱いで竿にかけ、紙漉きの技をねんごろに教えられたといいます。習いおえた里人は非常に喜び、お名前をお尋ねすると、『 岡太川の川上に住むもの』と答えただけで、消えてしまいました。それから後は、 里人はこの女神を川上御前とあがめ奉り、 岡太神社(おかもとじんじゃ)を建ててお祀りし、その教えに背くことなく紙漉きの業を伝えて今日に至っています。」

継体天皇は応神天皇の5世孫にあたり、以前は男大迹王として越前国を治めていたのだが、第25代武烈天皇が跡継ぎを定めずに崩御された際に白羽の矢が立ち、中央豪族の推戴をうけて西暦507年に河内国樟葉宮において即位され、第26代の天皇となったとされている。この継体天皇が越前の王であった時代は5世紀末から6世紀のはじめなので、この地における和紙の生産について1500年以上の歴史があることになるのだが、この地における和紙生産が相当古くからおこなわれていたことについては、川上御前の伝承だけではなく、正倉院文書に記録が残されているという。

全国手すき和紙連合会のホームページにはこう解説されている。
「越前和紙は、日本に紙が伝えられた4~5世紀頃にはすでに優れた紙を漉いていたようです。正倉院文書の天平9年(737)『写経勘紙魁(しゃきょうかんしげ)』に「越経紙一千張薄」とあり、写経用紙として薄紙も納めていたので、すでに技術水準が高かったといえます。」
http://www.tesukiwashi.jp/p/echizen1.htm

川上御前
【川上御前】

紙漉きの業を伝えた川上御前は、紙祖神(しそじん)として今もこの地で尊崇され、その姿を模した分霊の像は、どこの紙屋でも高い場所に鎮座されているのだという。この神様は、わが国で存在する唯一の「紙の神様」なのだが、群を抜く越前和紙の品質の高さは、紙祖神に対する地域の人々の厚い信仰抜きでは語れないのだと思う。

前掲のホームページにはこう解説されている。
「平安時代には中男作物の紙を納め、中世には鳥子紙・奉書紙の名産地となっています。近世にはさらに檀紙の産地として名声を博し、最高品質を誇る紙の産地で、『雍州府志(ようしゅうふし)』は「越前鳥子是を以て紙の最となす」と讃え、『経済要録』には「凡そ貴重なる紙を出すは、越前国五箇村を以て日本第一とす」と評しています。
寛文元年(1661)に初めて藩札を漉き出したのも、明治新政府の太政官金札(だじょうかんきんさつ)用紙が漉かれたのもこの地です。また、横山大観始め、多くの芸術家の強い支持を得て、全国に越前和紙の名は知られています。」
http://www.tesukiwashi.jp/p/echizen1.htm

岡太神社 大瀧神社 鳥居

上の画像は大瀧神社・岡太(おかもと)神社(〒915-0234 越前市大滝町23-10 ☏ 0778-42-1151)の鳥居で、主祭神は大瀧神社が国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で、岡太神社が川上御前である。
標高326mの権現山山頂付近にある奥の院にはそれぞれの本殿が別々に建てられているそうだが、下宮の本殿・拝殿は両神社の共有になっているというところが面白い。

大瀧神社 境内の紅葉

この神社の境内域の森林はふるさと文化財の森に指定されており、鳥居をくぐると樹木に囲まれた神秘的な雰囲気の境内が広がる。この時期は銀杏の木の色づきが鮮やかで、今月下旬までは美しい秋の景色が楽しめそうである。

手水舎で手を清めていると、ボランティアの方に声をかけて頂き、木造十一面観音(越前市指定文化財)の拝観を勧められ、手水舎の奥にある観音堂(絵馬堂)に向かった。
大瀧神社はもともと神仏習合で「大瀧児(おおちご)権現(大瀧寺)」と称し、中世には勝山市の平泉寺の末寺となり広大な寺域に48坊の堂塔が建ち600余人の衆徒がいて隆盛を誇ったが、織田信長による一向一揆討伐の兵火にかかり全山が焼失。その後丹羽長秀を始め歴代領主の保護を受けて復興したのち、明治維新の神仏分離令により大瀧神社と改称されたという。仏像などは処分せず、法徳寺などの寺に預かってもらったおかげで、貴重な平安時代の仏像が今も残されている。

大瀧神社 絵馬堂の十一面観音座像

観音堂にある木造十一面観音坐像はご祭神の本地仏として平安時代初期に制作されたものだという。神社が仏像を保有している事例は今まで何度かこのブログで書いてきたが、所有している仏像を一般に公開しているところは殆んどない。大瀧神社が仏像を保有していることは事前に調べて知ってはいたが、拝観は難しいと思っていたので、拝観の声をかけて頂いただけでなく撮影の許可までしていただいた時は本当に嬉しかった。この日はたまたまバスで団体の観光客が来られる予定とのことで、運よく拝観できたのかもしれない。

大瀧神社 神門

上の画像は神門だが、この門をくぐると国の重要文化財である大瀧神社本殿および拝殿がある。

大瀧神社 拝殿・本殿

この建物は天保14年(1843)に建築されたものだが、屋根は檜皮葺で重厚にして躍動感があり、柱や本殿の壁面などには驚くほど装飾性の高い彫刻が施されている。大工の棟梁は大久保勘左衛門で、大本山永平寺の勅使門を手がけた人だという。

大瀧神社 拝殿の彫刻

上の画像は拝殿の彫刻で、下の画像は本殿の彫刻であるが、この地域が和紙作りで如何に豊かであったかが、この建物を鑑賞すれば誰でもわかるだろう。

大瀧神社 本殿の彫刻

権現山の山頂付近に奥宮があり、岡太神社、大瀧神社、八幡宮の三つの建物が並んでいるのだそうだ。御神木の大杉やぜんまい桜、ブナの大木が林立する社叢を観ても良かったのだが、旅程を優先して断念した。奥宮までは歩いて約30分とのことだった。

次の目的地である紙の文化博物館(〒915-0232 越前市新在家町11-12 ☏ 0778-42-0016)に向かう。道路の反対側にコミュニティー広場の無料駐車場があり、チケットは卯立の工芸館と共通である(\200)。

紙の文化館には越前和紙の産地の歴史や和紙の利用についての様々な展示がある。
明治維新後、幕府などに納めていた越前和紙の需要が激減し、五箇の紙漉きは存続の危機に陥るのだが、明治維新政府の参与となった福井藩出身の由利公正が、全国統一紙幣である太政官札の発行を建議し、藩札用紙の漉き立ての実績があり大量生産が可能な五箇の紙が選ばれたのだそうだ。その後、新政府発行の紙幣はドイツ製の洋紙に変更されたが、明治8年(1875)に大蔵省抄紙(しょうし)局が設けられ用紙の独自製造が再開されると、その際に越前和紙の紙漉き職人が上京して新紙幣の用紙を漉いて技術指導を行った記録がある。
また越前和紙職人は偽造防止の為に透かし技法を開発し、日本の紙幣製造技術の飛躍的進化に貢献したという。その後も大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に「川上御前」の御分霊が奉祀され、昭和15年(1940)には大蔵省印刷局抄紙部出張所が岩本(越前市岩本町)に設置されるなど、越前和紙の技術はわが国の紙幣発行に不可欠なものであったのである。

卯立の工芸館

紙の文化博物館から歩いてすぐの所に卯立の工芸館(〒915-0232 越前市新在家町9-21-2 ☏ 0778-43-7800)があり、紙漉き職人の実演を見ることが出来る。
この建物は、江戸中期寛延元年(1748)に建てられた紙漉き家屋・西野平右衛門家を平成8~9年に移築したもので、国登録文化財になっている。

卯立の工芸館の玄関を入った土間と板の間

玄関を入ると広い土間と板の間があり、紙の原料である楮(こうぞ)などの煮釜がある。そして流しや井戸があり、紙漉き場がある。

紙漉き実演

和紙を作るには原料の皮をはぎ、白皮を煮たあと塵を取り、煮た皮をトントンとたたいて繊維を解きほぐし、叩いた皮を水の中で念入りに洗って不純物を洗い流す。その後漉舟の中の紙原料が早く沈まないようにするため、とろろあおいの根の部分を臼でついて採った粘液(ねり)をまぜる。そうしてから紙を漉くのだが、簡単そうに見えるものの均一な和紙に仕上げるためにはかなりの熟練が必要だという。あとは圧搾して水分を絞り、1枚ずつ板に張り付けて天日で紙を乾かすのだが、越前では紙の肌合いを重視して、干板は雌の銀杏の板を用いるのだそうだ。

この工芸館で本格的な流し漉き体験ができるコース(一人5千円)があるのだそうだが、簡単な紙漉き体験なら近くのパピルス館で封筒作りやうちわ作りなど多くのメニューが用意されているようだ。

しかしながら、よくよく考えると、今日の生活で和紙を使うことが随分少なくなってしまっている。昔は筆で字を書くこともあったのだが、今ではほとんどなくなってしまった。
パソコンや携帯機器が普及したことの影響で手紙を書くことがなくなり、書類なども印刷することが少なくなって、和紙だけでなく洋紙の需要も低迷しつつある。また電子マネーの利用が増加して、紙幣の需要も低下傾向にあり、このままでは、和紙にせよ洋紙にせよ、どちらも市場は縮小していくばかりである。
この地域の素晴らしい文化と伝統と景観を守るためには、越前紙が売れることが必要なのだが、そのためには絵画用、版画用、工作用、手芸用、建築用などの用途をもっと開拓していかなければならないはずだ。しかしながら紙という素材は、書く、描くという用途を離れて、消費者が飛びつくような新しい商品を開発することは決して容易なことではないのである。とりあえずおみやげに便箋を1つだけ購入したが、いつ使うことになるかはわからない。

せっかく越前に来たのだから、昼は越前蕎麦が食べたいと思って、近くの森六(越前市粟田部町26-20 ☏ 0778-42-0216)に向かう。和紙の里のコミュニティー広場の駐車場から1.5kmで、車で5分程度で到着する。

森六店内

明治4年創業の古いお店で、店構えも店内もレトロな雰囲気が漂う。店内には所狭しと芸能人らの色紙が飾られている。

越前蕎麦

メニューは越前おろしそばと越前せいろそば、スペシャルせいろそばの3つだけだが、迷わずおろしそばの大盛りを注文した。

黒っぽくてやや太めの蕎麦の上に辛味大根とネギと鰹節が載っているだけなのだが、噛めば噛むほどそばの甘みとおろしの辛みが混ざり合ってなかなか旨かった。
<つづく>

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【ご参考】
このブログで紹介した、神仏習合の風景が楽しめる神社。

いずれも、神社の境内に三重塔や多宝塔が残されています。

①柏原八幡宮(兵庫県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

②名草神社(兵庫県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

③談山神社(奈良県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

④新海三社神社(長野県) 
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html

⑤若一王子神社(長野県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-404.html

④邇々杵神社(滋賀県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-558.html

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史