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平家滅亡のあと畿内を襲った元暦2年7月の大地震

元暦2年(1185)3月に壇ノ浦の戦いで栄華を誇った平家は滅亡したのだが、それから約4か月後の7月に大地震が発生している。この地震は元暦年間に発生したので「元暦地震」と呼ぶ研究者もいるが、この地震の被害があまりに大きかったので翌月に「文治」と改元されたことから「文治地震」と呼ばれることが一般的だという。中世の日本においては、地震や疫病流行で改元されることが良くあったようだ。

この地震に関しては様々な記録が残されているが、『平家物語』の記述が具体的でわかりやすい。

「さる程に平家亡び、源氏の代になつて後、国は国司に随ひ、庄は領家の儘なりけり 。上下安堵して覚えし程に、同じき七月九日の午刻許り、大地夥しう動いてやや久し。赤県*の内、白河の辺、六勝寺**皆破れ崩る。九重塔も、上六重を振り落し、得長寿院の三十三間の御堂も、十七間までゆり倒す。皇居を始めて、在々所々の神社仏閣、怪しの民屋、さながら破れ崩る。崩るる音は、雷の如く、上る塵は煙の如し。天暗うして日の光も見えず、老少共に魂を失ひ、朝衆悉く心を尽す。又遠国近国もかくの如し。山崩れて河を埋み、海漂ひて浜を浸す。渚漕ぐ舟は波に揺られ、陸行く駒は足のたてどを失へり。大地裂けて水湧き出で、磐石破れて谷へ転ぶ。洪水漲り来たらば岡に登つてもなどか助からざらん。猛火燃え来たらば川を隔てても暫しは避んぬべし。鳥にあらざれば、空をも翔り難く、龍にあらざれば雲にもまた上り難し。只悲しかりしは大地震なり。白河、六波羅、京中に、打埋れて死ぬる者、いくらと云ふ数を知らず。四大種の中に水火風雨は常に害を為せども、大地に於いては異なる変を為さず。今度ぞ世の失せ果てとて、上下遣戸障子をたてて、天の鳴り地の動く度毎には、声々に念仏申し、喚き叫ぶ事夥し
六七十、八九十の者ども『世の滅するなど云ふ事は、常の習ひなれども、さすが今日明日とは思はざりしものを』と云ひければ、童部どもはこれを聞きて、泣き悲しむこと限りなし。」(高橋貞一校注『平家物語 (下)』講談社文庫 p.316-317)
*赤県:皇城に近い地。畿内。
**六勝寺:白川にあった法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のこと。法勝寺に九重塔があった。


この地震に関する記録は、政治の中心地であった京都で記されたものが殆んどであるため、地震の全体像が良くわからないのだが、「洪水漲り来たらば岡に登つてもなどか助からざらん」と書いてあることから、わが国のどこかで津波の被害が出た可能性が高い。
鴨長明の『方丈記』も、
「山はくづれて、河を埋み、海は傾きて、陸地をひたせり。土裂けて、水湧き出で、巌割れて、谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよい、道行く馬は足の立ちどをまどはす。」(簗瀬一雄訳注『方丈記』角川ソフィア文庫 p.30)
と記されており、どこかで津波が発生したようである。

では、どこで津波が発生したのかと思って調べてみたのだが、当時の記録では津波被害があった具体的な地名は見つからなかった。しかしながら富山県黒部市にある新治(にいはる)神社で、この地震が原因とされる大津波で新治村が海没したとの伝承があるという。

黒部海物語

黒部市の過去イベントの解説によると、新治神社には、新治村が沈んだ様子と、80年後に海岸線が復旧した様子が描かれた2枚の絵図があるという。
https://www.city.kurobe.toyama.jp/event-topics/svEveDtl.aspx?servno=1371

新治神社地図

その絵図を一度見てみたいところだが、普通に考えて、津波で一時的に水に浸かることはあっても、水没したままの状態が数十年も続くことは考えにくいところである。また、この地震の原因について、琵琶湖西岸断層帯説と南海トラフ巨大地震説が有力だと考えられているのだが、いずれの説を取るにせよ、日本海沿岸の富山に津波が襲うという話が、私にはあまりピンと来ないのである。上の地図でマークしている地点が現在の新治神社なのだが、この地形を見て、津波に襲われやすい場所とは思えない。
地盤沈下があって集落ごと海に沈んだのであれば理解できるが、ここで「津波」があったという話は真実なのだろうか。地盤沈下で海没した伝承に、「津波」という尾鰭が後で付けられただけのような気がする。

京都大学名誉教授の三雲健氏の『元暦二年七月九日(1185年8月6日)の京都地震について』という論文が、次のURLでネットで紹介されている。
http://www.kugi.kyoto-u.ac.jp/dousoukai/pdf/1185-Genroku-eq2014121208.pdf

三雲氏のこの論文は、東京大学地震研究所助教の西山昭仁氏の文献資料研究を参考にこの地震における京都、滋賀、奈良、大坂の被害状況を比較したうえで、震源地についてこう推定しておられる。
「今回の地震の被害から想定される震度は、京都盆地内の左京、白河、東山地域で大きく、南東側の山科盆地がこれに次ぎ、西側ではあまり大きくなかったこと、さらに比叡山上や東側山麓の坂本で特に大きかったことなどから、震源地は京都盆地より東方にあった可能性が高いと考えている。さらに琵琶湖西岸南部沿岸の土地の沈降を考慮すれば、震源地はこの付近と考えるのが一つの有力な仮説と判断している。」(p.3)

近江国においては、比叡山延暦寺の中心部である東塔において壊滅的な被害が生じたことなどが紹介されているが、注目すべきは次の部分である。
史料{『山槐記』}によれば、この地震に際して、近江琵琶湖の湖水が北流して湖岸が三段ないし五段(33-55m)後退し、後日回復したことや、沿岸の何処かで三丁*の土地が水没したことを示すものと考えられる。この事実は琵琶湖沿岸において大規模な地変を起こした断層運動を示唆する貴重な記述と考えられる。」(p.3)
*丁=町:約109m

『山槐記』は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿である中山忠親の日記だが、琵琶湖について原文ではどのように記されているのだろうか。
国立国会図書館デジタルコレクションに『山槐記』の全文が公開されているので該当の部分を引用させていただく。
「近江湖水流北、水減自岸或四五段、或三四段、干後日如元満岸云々、同国田三丁地裂為淵云々」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949546/118

あの大きな琵琶湖の湖水が北に向かい、湖面が33-55mも後退したという話もすごいことだが、沿岸のどこかの土地が幅約300mにわたり水没したということも怖ろしいことである。

ネットで、氷河の崩落で観光客が大きな波に飲み込まれる動画が紹介されているが、この程度の氷が崩落するだけでもこれだけの波が生じるのであれば、300m以上の地盤の水没となるとはるかに巨大な波が発生することは容易に想像できる。

https://youtu.be/rMHXMWd1JlI

山容が崩落しても同様のことが起こりうるであろう。琵琶湖の南で起きた大きな地盤の水没が、「琵琶湖の湖水を北流」させたとは考えられないか。

今年の7月に、グリーンランド西岸の小さな島・インナースト島で高さ100mの巨大な氷河が接近し、もしこの氷河が島に衝突して崩落すれば、大規模な津波が発生して沿岸部が水没する恐れがあるとして島民に避難勧告が出されたことが報道されている。
http://news.livedoor.com/article/detail/15011936/

今までテレビなどでよく聞かされてきた地震の解説は、プレートの境界の近くで地震が起きると、陸側が跳ね上がって海側にせり出して津波の原因となるというものであったが、山容の崩落や、氷山の崩落、地盤の水没なども津波の発生原因となりうることを知るべきだと思う。

琵琶湖のような湖は、大きな自然災害が起こる可能性が低いとのイメージを今まで持っていたのだが、前掲の三雲論文の(追記)には重要なことが書かれている。

「上の西山論文に言及された琵琶湖西岸断層については、近年地質学的・古地質学的な調査研究が行われており、その概要を以下に述べる。
琵琶湖西岸断層系は7-8本の小断層からなる総延長約59kmの断層系である。このうち中部以南では、北北東—南南西走行の比良断層、堅田断層、比叡断層、膳所断層、および西岸湖底断層などがあり、最長の比良断層の長さは約16km、南部全体の長さは約40kmと見積もられている。これらの断層は何れも地形的には西側が東側に対して相対的に隆起する逆断層である
 最近、これらの断層については地形学的調査のほか、反射性弾性波探査、ボーリング調査、トレンチ調査などが行われ、これらの断層の実態が明らかになって来た(地震調査研究推進本部2003、2009)
 このうち弾性波探査から、堅田断層は深さ3kmまでは傾斜40度で西側に傾き、深さ3-5kmでは35度の傾斜で同様に西側に傾斜する。その最深部は京都盆地よりやや東側の下部まで達している可能性が考えられる。各種の地質学的調査のデータからは、この断層の最新の活動時期は、1060-1270年A.D.の間と見積もられており、西山論文に述べられた1185年元暦地震の発生は、これら最近の地質学的、地震考古学的研究成果を裏付けるものである(Kaneda et al.,2008)。」(p.4)

逆断層

逆断層というのは、水平に圧縮される力がかかって岩盤が急速に縦にずれ動き、上磐がのし上がって生じるものである。立命館大の熊谷道夫教授の調査によると琵琶湖は11年で20センチ以上動き、かつ琵琶湖の幅は約3センチ縮小しているのだそうだ。

また琵琶湖の周囲には水没した集落の湖底遺跡が数多く存在しているという。下の動画は毎日放送で6年前に放送された『特命調査班』のレポートだが、途中で登場される滋賀県立大学の林博通名誉教授の、琵琶湖の周辺には、過去の地震によって湖底に沈んだ集落の遺跡が100前後確認されているという解説には驚いてしまった。
https://www.dailymotion.com/video/xprm7p

琵琶湖湖底遺跡

前回の記事で、天正地震の際に琵琶湖岸の長浜で湖岸から100m前後の距離にあったかなり広い土地が湖に沈み込んだことを書いたが、これだけ大規模な地盤沈下で地表が湖底に沈んでしまえば、とてつもなく大きな波が生じて沈んだ地域を襲った後に、その勢いで、沈まなかった長浜の地域を襲うことになるだろうし、琵琶湖の他の湖岸各地に波が及ぶことになるだろう。
前回記事で、ルイス・フロイスが若狭の長浜に津波が襲ったと記録していることを書いたが、もしかするとフロイスは、近江の長浜と混同して、そのように書いたのではないだろうか。

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戦国時代の歴史を動かした天正地震

4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。

帰雲城趾

上の画像は帰雲城があったとされる場所に立つ『帰雲城趾』の碑だが、画像に写っている帰雲山は何度も山崩れを起こしているのか、今も地肌を見せたままである。

教科書などでは天正地震のことは何も書かれていないが、この地震で倒壊したのは帰雲城だけではなかった。Wikipediaによると美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、伊勢の長島城が倒壊、近江の長浜城が全壊などとかなり広範囲に大きな被害が出ている。

震源地については諸説があるが、太平洋側の伊勢湾と日本海側の若狭湾の双方に津波の被害が出ている。

その当時イエズス会宣教師としてわが国に滞在していたルイス・フロイス(1532~1597)の『日本史』には、この地震について次のように記している。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、(我らの暦の)1月の何日かにあたるが、(突如)大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
 人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
 その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫『完訳フロイス日本史③』p196-197)

地震の日付は和暦で記しているのだが、同年の11月1日には地震の記録は外に存在しない。フロイスが単純に日付を誤って記したものと理解されている。

長浜城
長浜城

通常続いてフロイスは琵琶湖岸の長浜の事例を記している。
「近江の国には、当初関白殿が(織田)信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を数える町がある。そこでは地震が起こり、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。」(同上書 p.197)

長浜地図

長浜には西浜千軒遺跡下坂浜千軒遺跡という湖底遺跡があり、この地震で湖に水没したと推定されている。
次のURLに、2011年9月12日に滋賀県立大の中井均准教授が指導する「琵琶湖水中考古学研究会」が、長浜市沖の西浜千軒遺跡の調査で、供養塔や仏塔の一部など430点が見つかったと発表したことの新聞記事をまとめている。このブログ記事によると。
「長浜市祇園町沖約100mの湖底・水深約1・2~1・5mで、東西38m、南北26mにわたって素潜りで調査し、方形区画や石積みを見つけた。 一石五輪塔(砂岩製)の一部や、石仏の上部など、墓地に使われたとみられる石があり、材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭に作られたとみられる。 文献で天正13年11月29日(1586年1月18日)に岐阜県中北部を震源とするマグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、これと時期が一致した」とある。
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/92dc366e3e9c269182cbd181fbcc0c16

長浜城からの琵琶湖の眺め
長浜城から西浜千軒遺跡方面を望む(画像の右)】

「琵琶湖水中考古学研究会」が撮影した写真は同会のFacebookホームページで公開されているが、今の湖岸から100m近く西に千軒近い集落があり、その集落が地震によって瞬時に水没したと理解すればよいのだろうか。
https://www.facebook.com/lakebiwaarchaeology/

さらにフロイスは京都の事例を記したのち、若狭湾で津波の被害が出たことを書いている。

「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

高浜、小浜地図

 ところが、若狭湾には長浜という地名は存在しない。フロイスが琵琶湖に沈んだ長浜の話と混同したのかと誰でも考えるところだが、フロイスは「やはり長浜と称する別の大きい町」と、琵琶湖岸の長浜とは区別して書いている。小浜の地名を誤ったか、高浜の地名を誤ったかのいずれかなのだが、地形から判断すると、U字型をした湾の中心部にある高浜の方が津波の被害が出る可能性が高そうだ。Wikipediaによると、福井大学の山本博文教授は福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表したという。平成27年5月19日の読売新聞の記事が次のサイトで掲載されているが、笠原川を遡った津波が、海の砂や貝殻を運んだ形跡が、かつて湿地帯であった水田の、深さ約1mに確認されたという。このあたりの標高を電子国土Webで確認すると1.5~3m程度で、さらに深さ1mというから津波の規模としては高浜では比較的小規模なものであったような印象を受ける。
http://jcpre.com/?p=8105

イエズス会のジアン・クラッセ(1618~1692)がわが国で布教活動をしていた宣教師たちの書簡に基づいて著した『日本西教史』にこの地震の津波のことが記されている。この本は国立国会図書館デジタルコレクションに収められていて、誰でもPC上で読むことが出来る。津波の記事だけ紹介すると、
若狭の国内貿易の為にしばしば交通する海境に小市街あり。ここは数日の間烈しく震動し、これに継ぐ海嘯を以てし、激浪の為に地上の人家は皆一掃して海中に流入し、あたかも元来無人の境の如く全市を乾浄したり」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/344

クラッセは、おそらく当時日本にいたフロイスなどの書簡を参考にして記したものと思われるが、当時の宣教師の記録そのものが確証のない噂話を記したものである可能性も考えられる。

吉田兼見
【吉田兼見】

しかしながら、宣教師とは全く接点がなかったと思われる日本人による津波の記録も残されている。
吉田神道宗家・吉田家9代当主の吉田兼見が『兼見卿記』の11月30日条に、地震の後の津波の事を書いている。文中の「若州」は「若狭」と理解してよく、若狭湾で津波が発生した可能性はかなり高そうだ。
「廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦邊波ヲ打上在家悉押流、人死事不知数云々、」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/kanemi.jishin.html

ところでこの天正地震が起こった時期は、秀吉は近江国の坂本の城にいた。
フロイスの記録によると、
彼は、その時手がけていたいっさいのことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである。」(同上書p.199)とある。
この地震で大坂城は大丈夫だったのだが、弟の秀長の館は倒壊したという。

フロイスは、秀吉が「その時手がけていたいっさいのことを放棄し」たというのだが、秀吉は何を手がけていたのだろうか。
地震が起きた天正13年(1585)の秀吉の動きを見てみよう。
3月には紀州を平定し、7月には四国を平定し関白となり、8月には越中を平定している。
閏8月には家康が真田領に侵攻し、真田昌幸は上田城に籠城している最中に秀吉に支援を要請した。秀吉は支援を約束し、11月19日付の手紙には来年正月15日に家康を討伐するために出陣するので真田昌幸からも兵を出すように伝えたという。(松丸憲正氏所蔵文書)

そしてその10日後にこの天正地震が起きたのである。

秀吉

秀吉にとって、この地震のダメージは大きかった。
徳川征討軍で先鋒を期待されていた山内一豊の長浜城が倒壊し、大規模な地割れで長浜の市街地の一部が湖底に沈んだために多くの死者が出た。また徳川征討軍のための兵糧が蓄えられていた大垣城も倒壊してしまった。秀吉軍の他の武将も地震で大打撃を受け、家康征伐どころではなくなってしまったのである。一方、家康のいた三河以東は震度4以下で被害は少なかったのだという。

天下統一を目指していた秀吉は、地震によって家康打倒の強硬策から融和策への方針転換を迫られ、友好の証として妹の旭姫を送って家康を自陣営に取り込んだのである。さらに秀吉は、家康の上洛を実現させるために、実母を人質として家康に差し出している。

もしこの地震が起きていなければ、兵力で圧倒的に有利であった秀吉は家康を討伐していた可能性が高く、そうなると豊臣政権がその後も長く継続したかもしれないという認識が、最近広がりつつあるようだ。

地震は大地を動かすだけではない。時には為政者の運命を変えて、歴史をも動かすことがありうるのである。

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秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
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フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
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秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1
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農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令
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刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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