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仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表している。

罪第一等 徳川慶喜、
罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、
罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)
罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、
罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)

「朝敵」の認定を受けた藩は西日本が多かったのだが、これらの藩を含め佐幕派の諸藩は早々と抵抗を諦めて赦免を求めることとなり、鳥羽伏見の戦いの後は西日本ではほとんど戦闘行為に至っていない。

しかしながら、いくら藩主が謹慎し恭順の意を示しても許されなかった藩があった。それが会津藩なのだが、なぜ会津藩は戊辰戦争で戦うことを余儀なくされたのだろうか。幕末の動きを少し振り返っておこう。

松平容保
松平容保

文久2年(1862)に会津藩主・松平容保(かたもり)は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担うこととなった。
文久3年(1863)には薩摩藩と連携して長州藩を八月十八日の政変で京都から追放し、元治元年(1864)には池田屋事件で謀議中の尊攘派志士を襲い、蛤御門の変では長州藩兵と戦い、二度にわたる長州征伐にも関与した
。職務上やむを得なかったとはいえ、新政府からすれば新選組や会津藩に対し多くの同志を殺傷されたことの恨みがあったことだろう。
慶応3年(1867)の大政奉還のあと王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生し、今度は会津藩が京都から追放されて大阪城に退くこととなった
新政府は大阪城にいた徳川慶喜に上京を命じ、会津・桑名兵に対しては本国への帰還を命じている。そこで将軍の上京のために会津兵・桑名兵が守護することとなったのだが、慶応4年(1868)1月2日にその隊列の上洛を待ち伏せていた新政府軍が大砲を打ち込んで徳川方に挑戦したのが鳥羽伏見の戦いである。以前このブログで書いたように、会津藩も桑名藩も徳川慶喜も鳥羽伏見では戦う準備はしておらず、戦う意思は持ち合わせてはいなかったところに一方的に戦いを挑まれたのだが、1月17日に新政府は仙台藩に会津藩の追討命令を出している。原文は明治44年刊の『仙台戊辰史』に出ているが現代語に訳すと次のようなものであろう。
「会津藩松平容保はこのたび徳川慶喜の反謀に与(くみ)し、錦旗に発砲し、大逆無道の行いであったので征伐軍を発することとなった。貴藩が一藩の力で (会津藩の)本城を襲撃したいとの出願をしたことは、武道を失わない憤發の心がけ、神妙の至りであり、主上も御満足に思し召しである。よって(貴藩の)願いの通り、(会津征伐を)仰せ付けるので、すみやかに追討の功をあげるよう御沙汰する。 戊辰正月」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/146
しかしながら仙台藩は会津藩を討伐することを出願したこともないのに、このような命令が届いたのは何かの間違いであろうとしてすぐには動かなかった。

一方、会津藩は必死に和平の道を模索していた。
松平容保は2月4日に藩主を辞任して家督を養子である喜徳(のぶのり)に譲り、2月16日に会津藩を朝敵とする勅命が下ると会津に向かい会津鶴ヶ城外の御薬園(おやくえん)に入り恭順謹慎
して、朝廷の命を待った。

会津藩首脳も朝廷ほか尾張、紀州、加賀、肥後、土佐など二十二藩に対し『嘆願書』を呈出し和平の周旋を懇願したが、良い返事をもらえなかった。こうした中、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)は、松平容保に深く同情し、朝廷との周旋を決意した。
また、別ルートで仙台藩から米沢藩に使者が使わされ、新政府の奥羽鎮撫使が来たら、会津藩の嘆願を周旋して奥羽での戦乱を避けることで合意していた。

九条道孝
【九条道孝】

3月22日、新政府に敵対姿勢を続けていた会津藩、庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督および新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日に奥羽鎮撫総督の九条道孝は参謀の世良修蔵(長州藩)、大山綱吉(薩摩藩)らとともに仙台藩・米沢藩をはじめとする東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命じている

しかし奥羽鎮撫使のメンバーはとんでもない連中であったことが記録されている。
『仙台戊辰史』に、仙台到着数日前からの彼らの行動が詳細に記されている。文中の大山格之助は参謀の大山綱吉で、三好監物は仙台藩の重臣、慶邦公は陸奥仙台藩藩主の伊達慶邦、伹木土佐は仙台藩の奉行である。

大山綱吉(格之助)
【大山綱吉(格之助】

「東名浜に上り総督の一行は山本久米蔵の家に宿す。この日東名浜に江戸の商賈某の貨物を満載せし商船の碇泊しあるを見て、薩の参謀大山格之助は商人を尋問したる末、これ敵地のものなり、宜しく分捕りすべしと、貨物及び船を奪い、商人を追放して数千金を得、大白を挙げて之を祝せしかば、仙台藩は勿論、各藩より来れる者および付近の人民は大いに驚きたり。19日夜半三好監物東名浜に出迎えしが、総督一行は21日松嶋を遊覧し観瀾亭に宿陣せしかば翌23日払暁慶邦公は伹木土佐らを従え儀を整えて松嶋に至り総督に謁せしに左の命あり

仙台中将
右早々人数差出し、会津へ討ち入るべき事
策略等の儀は、参謀に申談すべき候事

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/175

これを読めば、彼らにとっては「朝敵」会津を討伐するよりも商人の荷物を奪うことや、松島を観光することの方が優先であったことになる。新政府が東北に送り込んだのはこの程度の人物であったのか。

世良修蔵
世良修蔵

『仙台戊辰史』には、奥羽鎮撫使がほかにもひどいことをしたことが書かれている。
「薩長兵の入国以来、公然として仙台藩士を侮辱する意味の俗謡を謡いつつ、街衢を横行し酒を被りて、士人を凌辱し、隊を組みて市井に乱暴するも、天朝の軍人たりというの故を以て、有司も之を咎むるを得ず。甚だしきに至りては良家の婦女子を捉えて、終身拭うべからざる辱めを与え、之を誇りとするさえありしをや。しかもこれ等のこと、啻に無頼走卒のみならず、大山、世良及び隊長と称する者またこれを敢えてして顧みざるに至りては、大藩の威厳を傷つけざらんとする仙台藩少壮の士の忍び得るところに非ず。朝命を畏み奉ずるにおいて人後に落ちざらんとする赤誠の士も、天朝を代表すと称する総督府参謀輩の兇威に対し武士の面目に於いてこれに反抗せざるを得ざるに至りしは、勢いの已むべからざるに属す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/177

上杉斉憲
【上杉斉憲】

こういうわけで奥羽鎮撫使の行状が許せないとする者が仙台藩の若手藩士を中心に増加していったのだが、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)が奥羽鎮撫使に使者を送り和平の斡旋を申し述べた際には奥羽鎮撫使参謀の世良修蔵が激怒し、「会津追討に異議があるのなら、米沢藩も同罪として追討する」と脅したという。

伊達慶邦
伊達慶邦

同じ頃仙台藩主伊達慶邦(よしくに)も会津藩謝罪の周旋をしたいと告げ、会津謝罪の条件を問うと、仙台藩が和平工作をしていることに世良修蔵がまた激怒し、「会津藩の謝罪の条件は、松平容保斬首、会津鶴ケ丘城開城」という過酷な条件を提示している。もしここで会津追討をためらえば仙台藩も朝敵にされるおそれがあった。
そこで仙台藩主の伊達慶邦は会津藩境に大軍を送って世良の顔を立て、同時に会津藩に早期降伏を進めて和平の道を探ろうとし、家老級3名の切腹と領地削減を条件に会津藩が新政府に降伏する旨の話を取り纏めて、仙台・米沢藩主連名で『会津藩寛典処分嘆願書』とさらに奥羽各藩家老による『奥羽各藩家老連名嘆願書』を4月12日に奥羽鎮撫総督九条道孝に呈出したのだが、世良修蔵はそれをも拒絶し、仙台・米沢両藩で会津藩の征討を再度厳命したのである。

なぜ世良はここまで執拗に会津討伐を要求するのか不審に思い、仙台藩が世良参謀の周辺を探索させると、世良が出羽に遠征中の大山参謀に宛てた閏4月19日付けの密書が手に入った。そこには驚くべきことが書かれてあった。全文は次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/243

ポイントになる部分は「京師(京都)へあい伺い、奥羽の実情、篤と申し入れ、奥羽皆敵と見て逆襲の大策に致したく、大総督府西郷様へも御示談致し候うえ、大挙奥羽への皇威の赫然致し仕りたく存じ奉り候。米仙(米沢藩と仙台藩)の朝廷を軽んずる心底、片時もはかり難き奴に御座候」で、要するに世良は奥羽を全面的に武力制圧することを主張していたのである。

日頃から傲慢粗暴の振舞いで仙台藩士の恨みをかっていただけでなく、いつか仙台藩を朝敵として讒訴しかねない男を見過ごすわけにはいかず、仙台藩軍事局はこの世良修蔵を捕らえて糾問することとした。
閏4月20日午前二時ごろ、仙台藩士赤坂孝太夫・福島藩士遠藤条之助が福島の金沢屋で遊女と寝ていた世良修蔵を急襲して捕縛し、部屋にあった閏4月15日付の大山参謀からの密書を持ち帰った。その全文も『仙台戊辰史』に収録されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/246

その密書には「奸計(悪だくみ)をもって総督府へ迫り奉り…仙台の者ども、甚だ姦物(悪者)にして、ついては両君将(仙台・米沢藩主)を京都へ呼び寄せ、両三年の間差し留め候」などと書かれている。
仙台藩は、奥羽鎮撫使は仙台藩も米沢藩もいずれ追討する考えであることを悟り、口封じのため世良を斬首したのだが、このあとで奥羽人の怒りが爆発することになる。

奥羽諸藩は薩長を糾弾し、奥羽鎮撫使総督ではなく直接京都の太政官に宛てて建白書を呈出して、会津藩寛典処分を願い出ることとした

奥羽越列藩同盟

閏4月22日奥羽列藩重臣会議が開かれて仙台藩、米沢藩、秋田藩、盛岡藩、二本松藩など奥羽二十五藩による奥羽列藩同盟*が結成され、同盟の建白書が起草された。そこには、世良や大山の悪事のことや、会津藩は家老級3名の切腹と領地削減にて降伏を申し出たにもかかわらず、参謀の世良がこれを拒否したことは王政復古の妨害になることなどが主張されている。
*奥羽列藩同盟:5月4日に越後長岡藩、6日には新発田藩などの北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/258

この建白書の主張は正論なのだが、正論であったがゆえに、薩長と奥羽越列藩同盟諸藩との戦争は避けられなくなったのである。

仙台戊辰史

『仙台戊辰史』は仙台藩の立場から書かれているので誇張部分もあるだろうが、前々回の記事で紹介した奥羽鎮撫総督府の戸田主水の内部告発文書においても、大山・世良の両参謀は強く批難されている。
寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。」
世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。」

「鎮撫使」というものは、読んで字のごとく、人民を鎮めて安心させることが本来の仕事であるはずなのだが、明治新政府が奥羽鎮撫使参謀として送り込んだ人物は、二人とも会津藩に対する強い復讐心で凝り固まっていて、戦わずして鎮めようとするような意思は毛頭なく、しかも東北の人々から信頼を失って当然と言える行為を繰り返したことは重要なポイントである。
一般的な教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)とあるのだが、この文章を普通に読めば、会津藩も東北諸藩もずっと新政府に抵抗し続けたと理解するしかない。
しかし、この教科書のような説明では、会津藩も新政府に恭順の意思を示していて、東北諸藩は和平に向けて新政府との仲介をしようとしたところを奥羽鎮撫使参謀が拒絶したという真実を読み取ることは不可能だ。

会津藩は「朝敵」とされていたが、東北諸藩は「朝敵」とされていたわけでもないのに、自らが「朝敵」の汚名を受けるリスクを覚悟で会津藩を助けようとしたのは何故なのか。
この理由は、奥羽鎮撫使が東北で信頼を失う行為を繰り返したことも大きな理由の一つではあるが、これだけでは東北諸藩が連盟を組むことはつながらない。ただ会津藩を援けるというだけではなく、自藩の存亡にかかわる危機感を共有していなければ連盟を組むということはありえないと思うのだ。

仙台藩や米沢藩が会津藩を援けようと動いても、奥羽鎮撫使参謀は拒絶し、仙台藩や米沢藩に会津討伐を命じるばかりだったのだが、それがあまりに執拗であった。しかも奥羽鎮撫総督府の兵は動かず、ただ命令があるだけだ。
明治政府からすれば、奥羽鎮撫総督府のメンバーが構成された当時は、江戸城はまだ開城されておらず、幕府軍は江戸に存在していたために新政府が東北地方に兵力を割ける状態ではなかった。そのために奥羽鎮撫総督府の兵力はわずかに570名程度で、奥羽諸藩の鎮撫は、奥羽諸藩の兵力でもって行う方針で臨まざるを得なかったという事情があったようなのだが、こんな少ない兵力で奥羽を統一するという新政府の方針に無理があったと言わざるを得ず、奥羽諸藩からすれば新政府の援軍なしで会津と戦えというのはさぞ不愉快なことであったろう。

罪のない会津藩が朝敵にされるようでは、自藩もいつ朝敵にされてもおかしくない。もしかすると新政府は奥羽諸藩同志を戦わせて疲弊させてから、いずれ奥羽全体を武力討伐する魂胆があるのではないかと疑いつつ、世良の密書でそれが明らかになって一気に爆発したということということではなかったか。

会津藩も、「朝敵」と名指しされた他藩と同様に新政府に対し恭順謹慎していたのだから、新政府が会津藩が降伏することを許していれば戊辰戦争で東北地方が戦禍に巻き込まれることはなかったはずである。
会津征伐にこだわり、東北諸藩に会津征伐をさせるのは新政府の方針であったのかもしれないが、そうだとすると奥羽鎮撫使の両参謀とその部下が仙台藩で信頼を失う行為を繰り返してはいけなかったはずである。
明治政府は会津藩に対する戦略を誤ったのか、奥羽鎮撫使参謀の人選を誤ったのか、その両方なのかのいずれかなのだろうが、いずれにせよ、私怨で住民を争いに巻き込むべきではなかったと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html






関連記事

西郷隆盛は明治新政府の初期の腐敗ぶりに涙した


岩波文庫に『西郷南洲遺訓』という本がある。この本に西郷隆盛の遺訓をまとめた『南洲翁遺訓』などが収められているのだが、この南洲翁遺訓』は戊辰戦争で薩摩藩と敵対した旧庄内藩の旧家臣の手によって、明治23年に制作され広く頒布されたものである。

南洲翁遺訓

なぜ薩摩藩ではなく庄内藩の旧家臣によって西郷隆盛の遺訓集が作成されたのかと誰でも思うところなので、その点について少し説明しておこう。

薩摩藩邸襲撃による火災
【薩摩藩邸襲撃による火災】

薩摩藩は慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令の後、芝三田の薩摩藩邸に浪人を集めて江戸の治安を攪乱させていた。当時江戸市中の警備を担当していたのは庄内藩であったが、12月25日には薩摩藩邸の浪人が庄内藩邸に発砲する事件が発生したことから、老中稲葉正邦は庄内藩に命じ薩摩藩邸を襲撃させている。

この事件がきっかけとなって戊辰戦争が始まり、庄内藩は官軍と戦いの末敗れてしまった
のだが、共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済み旧庄内藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)は明治3年に庄内藩に復帰している。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛されることとなる。

酒井忠篤
【酒井忠篤】

西郷は戊辰戦争が終了した後は東京残留を断って鹿児島に戻っていたのだが、明治3年(1870)に酒井忠篤は旧藩士らを従えて鹿児島に西郷を訪ねてその教えを請い、その後も旧庄内藩士らは鹿児島を訪れて、西郷から直接話を聞いたという。
明治22年(1889)に大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が戻されて西郷の名誉が回復されることとなり、酒井忠篤が旧庄内藩の旧藩士たちに命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。それが『南洲翁遺訓なのである。

南洲翁遺訓』は今では誰でもネットで訳文や解説文が読むことができる。
いろんなサイトがあるが、例えば『敬天愛人フォーラム21』の『西郷南洲翁遺訓集』は読みやすくてお勧めである。
https://www.keiten-aijin.com/ikun

西郷隆盛

この遺訓を読むと、西郷が、出来たばかりの新政府にかなり批判的であったことが垣間見えてくる。いくつかを紹介しよう。

「第一ケ条
【原文】
廟堂に立ちて、大政を為すは、天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて、政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認める以上は、直に我が職を、譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を、官職を以て賞するは、善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるる…
【訳文】
政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、いささかでも、私利私欲を出してはならない。だから、どんな事があっても心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申される…」

西郷は国政を担う人物は、私利私欲で動く人物であってはだめで、いかに功績があったとしても、相応しくない職を与えるなと言っている。具体的な名前を挙げてはいないが、西郷から見て不適任な人物が多数政府にいたのであろう。西郷はこう述べている。

「第二ケ条
【原文】
賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
【訳文】
立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、どれを取り、どれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。昨日出された命令が、今日またすぐに、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまとまる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。」

立派な人物がいて発言の場を与えたとしても、新政府には、わが国をどのような国にするかという基本方針がしっかり定まっていなかった。
明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせたため、地方に権力を残したままとなってこれでは中央集権国家は成立しえない。朝廷に兵力も財力もなく権威もなければいずれ天下は遠からずして瓦解してしまうことになる。
しかしながら新政府には、そのような危機感も持たずに自分の藩や自分の利益ばかりを追い求めるようなレベルの人間が少なからずいたことは第四ケ条を読めばわかる。

「第四ケ条
【原文】
万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して、面目無きぞとて、頻りに涙を催されける
【訳文】
国民の上に立つ者(政治、行政の責任者)は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。」

このように西郷は、維新の事業が始まったばかりの大事な時に、新政府の中で私利私欲に目がくらんだような連中の振舞いが多いのを見て、何のために戊辰戦争を戦ったのかと涙を流したというのだが、出来たばかりの明治新政府の官吏の働きぶりは、具体的にはどのようなものであったのだろうか。

横山安武
横山安武

明治3年の7月27日に薩摩藩士の横山安武という人物が、明治政府に仕える官吏の驕奢な暮らしぶりに憤慨して『時弊十箇条』を挙げた書を集議院門扉に公示して割腹自殺を遂げる事件があった。彼は初代文部大臣を務めた森有礼の実兄で、儒学者の横山安容の養子となって藩に出仕し、後に島津久光に側近として仕えた人物である。
西郷は後に彼の死を惜しんで碑文を作って弔ったのだが、この横山が死を以て訴えた『時弊十箇条』は、『南洲翁遺訓』の第四ケ条の内容をもう少し詳しく、具体的に記した文書としてもっと注目されてよいと思う。

『時弊十箇条』写
【『時弊十箇条』写】

時弊十箇条』の全文は明治44年刊の河村北溟著『西郷南州翁百話』に出ている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755544/85
が、昭和6年刊の望月茂 著『憲政史物語』の方が解説がなされていて読み物としてわかりやすい。引用部分の『』の太字斜字部分が『時弊十箇条』の原文で、その他の部分は望月茂氏の解説で、ある。文中の『三條公』というのは三条実美、『岩倉徳大寺』は岩倉具視と徳大寺実則のことである。また『集議院』というのは、「五か条の誓文」中に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と定められたことにより設置されたが公選により選ばれたものではなく、ほとんど機能しなかったという。
望月茂は『時弊十箇条』をこう解説している。

「彼は、わずかに28歳の一青年に過ぎなかったが、建白の十ケ条は悉く時弊をついている。
一、 輔相の大任をはじめ、侈靡驕奢、上朝廷を暗誘し、下飢餓を察せざる也。』
この時代は、明治も早や三年。維新当時の緊張しきった心持がうせて、大臣諸公がぼつぼつ贅沢をはじめ、青公卿が威張りだした。三條公などでさえ、白昼公然、流行の馬車を駆って吉原の大門を潜る始末。…
二、 大小官員も、外には虚飾を張り、内に名利を事とする少なからず』 
これは、いつの世も泰平になると免れない。
三、 朝令夕替、万民、狐疑を抱き、方向に迷う。畢竟牽強付会。心を着実に用いざる故なり。
痛いところを抉っている。全く明治初年の制度は、ああでもないこうでもないと猫の眼玉のように変わっている。それでは民衆が、疑いをさしはさむは当然である。
四、 道中人馬賃銭を上増し、五分の一献金等、すべて人情事実を察せず。人心の帰不帰を省みず。剥刻の処置なり。
五、 直を崇ばず、能者を尚び、廉恥上に立たざるがゆえに世風日に軽薄なり。』
これは、昭和の今日も同じらしい。
六、 官の為に人をもとめずして、人の為に官を求むる故に、毎局己れの任に尽くさず。職事、賃取仕事のように心得る者あり。』
どうも、今聞いても耳がいたい。
七、 酒食の交厚く、道義の交薄し。
明治3年、已に然りとせば、今日の道義の交わりおとろえたるは、致し方ないことかもしれない。
八、 外交人に対し、約定(条約の意)の立法、軽率なるをもって、物議沸騰を生ずること多し。
九、 黜陟の大典立たず。多くは愛憎をもって進退す。春日某の如き廉直の士はかえって私恨を啣み、冤罪に陥る数度なり。岩倉徳大寺の意中に出づると聞く。』
ここに春日某としてあるのは、春日潜庵をさしている。彼は硬骨の陽明学者。維新後奈良県知事となったが、讒を蒙って囹圄(れいご)の人となって以来、又出でて仕えず。明治11年没するまで、一処士として終わった。南洲翁の兄事していた人物である。
十、 上下、こもごも利を征りて、国危うきこと。
この十ケ条をあげているが、これを要するに、今日の言葉で言えば綱紀粛正である。彼は、なお最後に付け足し、朝鮮から頻りに侮られるが、それくらいのことで、兵を動かすというようなことは、とんでもないことだと言っている。口に一新を唱えて、一新の実あがらざる今日、外国へ兵を構えることなどは、国事をもって遊戯視する徒輩の暴論である。朝鮮は、文禄時代の朝鮮ではない。今日、国力の充実せざる矢先血気にかられて左様なことをするのは、国を亡ぼすものだと極言している。
集議院あれども無きが如く、草莽の議論が行われぬ折柄、ただ一片の建白ぐらいでは、政府の大官の意中を動かすことが出来まいと信じた彼は、ついに死をもって諫言しようとした。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268721/33

横山が批判した通り、当時の政府は課題や問題が山積みで、その政情は混迷をきわめていた。明治2年(1869)5月に榎本武揚以下旧幕臣が立てこもっていた函館の五稜郭が開城し戊辰戦争が終結すると、翌月には王政復古や戊辰戦争に功績のあった者に対し賞典禄や位階が与えられるなど論功行賞が行われたが、それら恩賞は薩摩藩、長州藩出身者に手厚いものであり、両藩に対する非難が出ていたという。また薩長両藩の間でも、政府の人事について争いが生じて、新政府は発足当初からかなり問題を抱えていた。
それだけではない。明治2年は天候不順で全国各地で農作物が不作を極めて物価が高騰し、農民の暴動が各地で起こっている。

廃仏毀釈

そんな情勢であるにもかかわらず、新政府の役人どもは仕事らしい仕事をせず、各藩の元大名屋敷を分捕って、使用人を雇い妾を囲うなど、旧大名さながらの驕奢な生活をするものが少なくなかった
。この時期に明治新政府が率先して推進したのは、廃仏毀釈という文化破壊と、東京奠都と、中途半端な版籍奉還ぐらいで、評価に値することは殆んど何もしていないのだ。

横山は「官の為に人をもとめずして、人の為に官を求むる故に、毎局己れの任に尽くさず。職事、賃取仕事のように心得る者あり。(仕事の為に人材を求めるのではなく、人のためにポストを与えるために、やるべき任務が尽くされない。給料のための仕事と考える者がある)」と書いているが、西郷にとっても同じような気持ちであったと思われる。

横山安武顕彰碑
横山安武顕彰碑】

明治5年に西郷が横山安武の顕彰碑の碑文を書いているが、この全文が青空文庫で読める。西郷が個人の為に碑文を書くことは珍しく、この碑文の他に1例があるだけだ。いかに西郷が横山の死を惜しんだかがわかる。
www.aozora.gr.jp/cards/001320/files/48226_32093.html

西郷の碑文で注目していただきたいのは次の部分である。
この時にあたり 、朝廷の百官 、遊蕩驕奢(ゆうとうきょうしゃ)にして事を誤るもの多く 、時(じ)論(ろん)囂々(ごうごう)たり 。安武すなわち慨然(がいぜん)として自ら奮つて謂く 、王家(おうけ)衰弱(すいじゃく)の極ここに兆す 。」

税金泥棒のような政治家や官僚がはびこることは何も明治初期だけの現象ではなく、程度の差はあれいつの時代もよく似たものだと思うのだが、今のわが国はかなりひどい状態と言っては言い過ぎであろうか。

重大な安全保障上の問題が多々あるにもかかわらず、国会ではどうでも良いことばかりを議論して、官僚は省益ばかりを追い求める連中があまりにも多い。国益に関わる重要な問題を何一つ解決できないのなら、職を辞してもらいたいと言いたいところだ。
もし西郷隆盛や横山安武がもし今も生きていたとしたら、わが国の政治家や官僚やマスコミなどに対して決して黙ってはいないことだろう。
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【ご参考】
明治新政府が最初にどんな仕事をしていたかについて、こんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html







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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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